68年をめぐる対論② アラン・トゥレーヌとマルセル・ラカブ(2)

AT:フランスは、200年間教会と国家の闘争によって、支配されていたことを付け加えておきましょう。人口の半分は、国家の側にいて、リベラルであり、残りの半分はカトリック教会の側にいて、保守的です。68年では、学生の大半は、中産階級の出身で、そこでは広い意味でのカトリックの割合が依然として高いのです。しかし、インテリと反教会の活動家は、非常にリベラルで、権利意識の強い傾向を持っていました。若者の自律性は、文化的なものが命じる事実によって規定されますが、ともかく、68年5月こそが、その自律性を生み出したのです。例えば、シューレアリズム運動を取り上げましょう。そこにホモセクシャルがいたことは間違いないのですが、若者は決していなかったのです。植民地戦争が終わる、1962年までは、人々が口にしたのは、若者ではなく、反抗(insoumission)でした。

L:フランスでは、Neuwirth法ができたのは、1967年です。ヨーロッパのいくつかの国では、ピルの解禁はずっと前でした。

M.L: フランスでのピル解禁や中絶に対する遅れは、出生率に対する政策に起因する。19世紀末、フランスは人口に関心を持ち始めた。というのも、優れた兵士を生み出すには、住民は健康であるとともに、もっと増える必要があった。どのような犠牲を払っても、子供を生む必要があった。法律的・経済的報償を与えられることで、独身女性は、子供を生むことを促進された。だから、ピルは、祖国に対する攻撃あるいは裏切りであった。中絶は禁止されていたにもかかわらず、19 世紀末まで、新聞には「堕胎業(faiseuses d’anges)」という小さな広告が出ていた。多くの嬰児殺しがあったが、告訴されることはまれだった。突然、ピルと中絶に対する馬鹿げたキャンペーンが起り、1920年には法律が作られることになる。他の国は、「選択」の政策を選んだが、その考えは、全ての人が子供を生む必要がないというものだ。ナチスのドイツを除いて、これらの国々は、1930年代からピルをまさに認めていたのだ。20世紀(→19世紀)初頭の、ナポレオン時代の最初の結婚の危機の影響の一つは、私生児の地位(正式な子供のものより劣るのであるが)を認めることであった。その目的は、フランス市民を増やすとことだった。しかし、私生児には社会的な汚点が付きまとったので、その数は少数のままで、19世紀の初頭から70年台までほぼ一定だった。しかし70年から、その数は爆発的に増大した。私的な世界は、もはや結婚によって支えられないのだ。

AT:振る舞いに対する、統制が失われました。

ML:私の考えでは、結婚とは異なる土台を基点として、社会を再編しようとする意思がむしろ問題になっているということです。私的な圏域は、今後性的な関係の周りに気づき上げられるだろう。新たな家族形態の軸は、自ら生む生まないを決める、出産年齢にある女性である。つまり、自分の欲求を持った母親です。

AT: 1967年のピルの解禁の議論は、そのことによって中絶が制限されるというものでした。ところが実際はそうなりませんでしたが。ようするに、正当化は、社会的次元のものでした。68年では、もはや人々が考えていたようなものではありませんでした。大きなことは、ある部門の自律化、つまり習俗の自律化です。これは、もはや国家の指示に従わないのです。

ML:反対に私の考えでは、性的な関係が、これほど国家によって組織され、監視されたことはないということである。70年代の改革の後、国家は私的な生活のあらゆるところに存在するようになった。68年のちょっとした逆説だ。

L: 5月の叛乱の直後の諸立法は、いずれにせよ優れたものではないしょうか。

ML: もちろんだ。すばらしいことに、1970年に、法は夫婦共同の親の権威を認め、1972年には正式な子供と私生児の平等が認められた。そのことで、決定的に結婚は破壊されることとなった。それに続き、1974年には成人が18歳となり、1975年には双方の同意による離婚が認められ、同じ年に中絶が認められた。70年代は性と家族における新しい秩序を打ち立てたといことには議論の余地はない。1975年から、事態は悪化し始めた。ちょうどその時登場したのは、極左のグループで、弾圧を要求して、監獄を求めて闘った。私が言っているのは、強姦の問題にかかわるフェミニストのグループのことだ。19世紀末、裁判官は、強姦に対する刑が厳しすぎると考えていた。それゆえ、彼らは、軽罪である公然わいせつ罪を適用して、軽い刑を下した。しかし、この傾向は、40年台末に、反転し始めた。その後にきたのは、爆発だった。1976年に始まる、強姦に対するフェミニストの闘争は、先立つ法にかかわる政治の中に書き込まれているが、前衛の側では、特に驚くべきものだった。そしてそれは、大転換だった。監獄は、悪い男性から救ってくれると見なされた。この転換が、より滑稽に見えたのは、当時他のものは、監獄の廃止を語っていたからだ。そこからまた、「あらゆる性的な関係は強姦である」というような亜流が生まれた。私にとっては、これは68年の終焉である。監獄を救いと考えるのは、むしろスターリン的なものである。

AT:あなたが述べたことは、68年の文化的要求ではありません。1975年から、リベラルの時代に入ったのです。世界中の国で管理された経済は後退し、その後10年足らずで、世界はリベラルになってしまいました。伝統的に、経済的なリベラルは、文化的には抑圧的です。このときこそが、現在異常なものとなっている抑圧的な過程のはじまりです。70年代の半ばと今日の間に、大きな後退が見られました。再犯の可能性のある性犯罪者の終身刑の議論は、30年前には考えられなかった。

L:各々反動的な法は、反対されながらも、可決され、自由を侵害しようとする陣営を強化しています。

ML: それが、明らかに、この30年以上の間で、フランスで起ったことだ。しかし、ナポレオン時代の家族のモデルを再び取り上げてみよう。私は、それを擁護しようとするのではないが、当時、国家は、主に家族における、生活習慣の規制を、個人に委ねたのである。同時に、国家は諸個人間の関係には、不干渉の立場を取った。性的な関係によって、国家は、諸個人が他人になしうる無限の悪を考える見事な手段を手にすることになった。今日根付いている考えは、個人的な関係において、個人は残虐な悪をなす可能性があり、国家は調停者の役割を果たさなければならいというものだ。こうして、ますます強化される刑法上の抑圧が正当化される。国家を軽蔑するのではなく、われわれは、身近な人たちを軽蔑し、国家に保護を求めている。(続く)

フェミニズムが話題になっていますが、この分野に関しては暗いので、訳していて勉強の必要を感じました。手元にあったフランス史の本(服部春彦・谷川稔『フランス近代史』)には、「フランス近代における家族と女性」という章が最後に設けられ、68年以後のファミニズムについて言及があったので、その部分を引用しておきます。
 「女性解放運動の頭文字をとったMLFは、ジャーナリズムのつけた呼び名であって、自称名ではなかった。当時のこの運動には、人目を引かずにはいない自発的な集まり方と盛り上がり方があった。MLFは、『妊娠中絶をした女性、未婚の母、なぐられた女性、売春婦、ブルジョア女性、プロレタリア女性、離婚した女性、同性愛の女性、異性愛の女性、強姦された女性といった抑圧された女性をそれぞれ切り離してかんがえるのではなく、むしろあらゆる女性のたたかいに共通する場』をつくろうとした。一言でいえば、これは自分たちの母親たちのような結婚をしたり、自分たちが育ったような家族をつくることを否定する性革命の運動であった。1970年代のフェミニズム運動は近代家族の解体をめざすことによって、従来のフェミニズム運動にはなかったほどの、思想と現実を根底から変えようとする運動となったのであった。」(同書294-5頁)

フランス近代史―ブルボン王朝から第五共和政へ

フランス近代史―ブルボン王朝から第五共和政へ

68年をめぐる対論② アラン・トゥレーヌとマルセル・ラカブ(1)

今回の討論はリベラシオンからです。

1968:la jeunesse s’empare de la vie privee. 2008:la victimisation fait la loi 
「1968年若者は私生活をわがものした、2008年犠牲者であるということが幅をきかす」

Liberation紙 2008年3月29日

AT: アラン・トゥレーヌ 
ML マルセル・ラカブ

L:アラン・トゥレーヌさん、68年には何歳で、何をして、何処にいましたか?

AT: 68年、私は43歳でした。私は教授で、ナンテールで社会学部の部長をしていました。ナンテールが設立されたのは1965年で、その目的はソルボンヌに対する新しい大学を作ることでした。私は、翌年に同じ心意気で、赴任して、3年だけそこにいました。なぜなら、急速にナンテールは、完全に変質してしまったからです。だから、私は3年間をナンテールの社会学教授として過ごしたことになります。それは非常に特権的な地位で、というのも私は、起きつつあることを推し量ることができたからです。1967年に最初のストが起りました。このストは、後の経過との一貫性においては、くだらない盛り上がりを欠いた出来事かもしれません。しかしこれによって、私は運動に対する準備ができました。1968年2月、私はその上、ル・モンドに2本の論文を発表し、ナンテールで何事かが生じていると述べました。私の友達は、疑っていましたが。

L:この動揺の性質は、どのようなものでしたか?

AT:ナンテールは辺鄙な場所で、C棟(哲学・社会学)に行くには、水溜りに投げ込まれた容器を飛び越えなければいけませんでした。このような酷い環境が好ましい影響を及ぼしていました。というのも教官と学生は、朝から晩まで、一緒に生活していたからです。いつも、私は、コーン‐バンディと一緒に朝食をとっていました。私は彼とは仲良くしていて、彼はパリで私の授業を取っていました。ナンテールには、寄宿生のための「学生寮」がありました。全てのことの引き金となったのは、若者の生活の問題であり、彼らの自由、とりわけ性に関する自由でした。

L:ナンテールで議論されていたのは、生活習慣の問題だったのですか?

AT: トロッキストや毛沢東主義者の「小グループ」がソルボンヌでは幅を利かせていました。一方ナンテールでは、3月22日運動によって支配されていました。彼らは、アナーキストであり、個人的にはコーン‐バンディにあっては、反共色が濃厚でした。ナンテールでは、文化的なテーマがはっきりしていました。例えば、ナンテールは3月22日に占拠されて、いくつかの戸や窓が壊されました。大学の機構は、若者を裁くために、懲罰委員会をつくりました。弁護士は禁止されたが、彼らは教授を選ぶ権利がありました。私たちは、特にわたしとP.リクール、3−4人で話し合いを持ちました。私は、個人的にコーン‐バンディとその年少の仲間の弁護をしなければなりませんでした。学長は、「破壊者」を尋問しました。「5月22日、あなたは学部にいましたか?」「いや、学部にはいなかった」とコーン‐バンディは答えた。「どこにいたのですか?」「家にいたよ」「それでは、午後三時に自宅で何をしていましたか?」「愛し合っていた。学長先生には、そんなこと経験したことなかったでしょうがね。」こんな調子でした。

L:マレセル・ラカブさん、自己紹介お願いします。

ML: 私は、フランスに1989年にやって来た。そして1968年5月のころは、ちょうど4歳で、アルゼンチンで生活していた。ラテンアメリカもヨーロッパで起っていたのに近い運動を経験した。しかし、ラテンアメリカでは、68年にここで論じられたのと同じ問題を掲げてデモをした若者たちの運命は、悲劇的なものだった。実際、若者のこのような反乱が終焉したのは、ラテンアメリカのクーデターと時を同じくし、軍事独裁政権は、主張されていたような蜂起の危険が存在しない一方で、若者たちを弾圧の血の海に沈めた。それは、アメリカから南アメリカに持ち込まれたマッカーシーズムだった。軍事独裁の間は、若者であることは、危険なこととなった。13歳の子供の死体の山が見つけられたが、それは子供たちが通学のためのバス料金の値下げのためのデモを組織していたからだった。そういうわけで、私は、暴力を伴わず、社会に対して大きな影響を及ぼしたフランスの反乱をすばらしいと思う。

L:暴力は、(自己)表現であり、パロールからの解放でした。

M.L:それは、暴力ではなく、自由だ。

A.T: 際限のない自由です。68年とは、文化や私生活の政治領域への侵入でした。学生たちは労働者的な言葉を使いましたが、現実の労働者階級とは現実的な接触を全く欠いていました。全く異なる二つの世界なのです。彼らが、政治や社会について語っても、それは、根本的に政治的でない、また根本的に社会的でない運動なのです。

M.L:しかし、わたしが信じるところでは、68年5月の主人公たちは、意識することなしに、すでに準備されていた習慣の次元での変化を要求したのだ。当時、制度としての家族や結婚のモデルは本当の危機に瀕していた。そしてそのことを、公的な政策は気づいていた。このモデルは取り替えられる必要があった。性の解放とは、婚姻制度の外に組織されていたはずの性の関係(sexualite)に与えられた名前だった。

A.T: ともかく、学生たちは、大きな断絶の感情と刷新の感情を抱いていました。突然、前人未踏の世界に踏み込んだのです。公のものに対して場を提供していた一連の出来事から、フランスは抜け出しました。つまり戦争、そして復興、さらには植民地戦争などなから抜け出たのです。ひとびとが夢中になったのは、経済で、工場が再建されました。しかし、住宅はそうでありませんでした。住宅の建設の必要性がわかるのに8年ほどかかりました。アルジェリア戦争は、1962年に終わりました。ポンピドゥーの首相在任期間(1962-8年)は、特に若者に対して理解を示したものではありませんでした。その時代(1965-7年)になると、経済的な生活では全てが再び軌道にのりましたが、私生活においては全くそうではなかったのです。68年の本質は、まず第一に若者という概念を登場させたことです。若者とは、私生活との関係によって定義されるものです。

M.L:若者だけが、私生活を持っているのではない。

A.T: 私が、若者と言う時、社会的・政治的カテゴリーが問題になっているのではありません。そのうえ、若者という概念は、議論を引き起こしてきました。例えば、ブルデューにとっては、若者は存在しません。ブルジョアの若者は、若いブルジョアなのです。私は、このような考え方を採りません。問題となっているのは、まず自身を学生としてではなく、若者として表現するということだったのです。これは新しいことでした。というのもフランスは、私生活の表現の観点においては、遅れていたからです。

M.L:それは事実ではない。なぜならフランスは、この社会的・政治的領域では長い間、前衛的役割を果たした国だったからだ。1789年の革命の後、フランスは、男色・動物性愛・近親相姦といった異端と結びついた犯罪を廃止した西洋で最初の国だった。イギリスでは、1860年ホモセクシュアルを絞首刑にし、同時代にスイスでは、同棲は禁じられていた。

A.T:そうかもしれませんが、イギリスでは、女性は第一次世界大戦後、選挙権を得ましたが、フランスの女性が手にするのは1945年のことです。確かに、フランスの女性は、文化的な生活における非常に重要な位置を占めてきました。

M.L:実際イギリス人とアメリカ人は、より早い時期に、政治的権利を手に収めたが、習俗の点では、20世紀初頭までは、フランスは模範的な国だった。  (続く)

■アラン・トレーヌは、日本でも著書が翻訳されている著名な社会学者。1925年生まれで、元パリ大学高等研究院の社会運動研究センター所長、雑誌「労働社会学」の創刊者のうちの一人。

■彼の政治的立場は、社会党であり、五月革命当時はPSU(統一社会党)に属す。PSUは、急進社会党共産党などからの離脱者や除名者で結成され、5月革命時には新左翼運動と結びつくことになる。彼は、以前の著書で5月革命に次のように述べている。
 「その歴史的重要性は、社会紛争(→闘争)であるとともに、文化的自由化(→解放)であること、創造的ユートピアの中に、過去の枯れ枝の剪定と社会統治の新形式への反対(→対抗的な)活動を結びつけたことでした。」 (『端境期の思索』P.104)

端境期の思索―或る女子学生への手紙 (1977年)

端境期の思索―或る女子学生への手紙 (1977年)

青春という亡霊―近代文学の中の青年 (NHKブックス)

青春という亡霊―近代文学の中の青年 (NHKブックス)

68年をめぐる対論(後半)

「68年をめぐる対論(前半)」の続きです。

H:ピエールは68年の共産党の振る舞いに対する批判めいたものをしました。ダニエル、あなたは、当時のJCR(革命的共産主義青年同盟)の役割をどう評価しますか?

DB: 正確な規模の点から言うと、JCRは、300人の若造で、年長のクリヴァンヌでさえ25歳だった。まずはそういうが、それは、われわれにとっては、政治の知的な実践であったということができる。加えて、われわれは共産主義の洗礼を受け、党と労働者の運動には歴史的な根が存在することを十分知っていた。だから「無頼漢」やある種の毛沢東主義を口にしていたコーン・バンディと違って、われわれは、共産党やCGT(労働総同盟、共産党系の労組)とは異なった関係を持っていた。そこから極左的な展開に出たのだ(Des trucs gauchistes,on en a fait.)。しかし、われわれの政治路線はどのようなものであったか?5月27日1シャルレティで、マンデス・フランスの策動があった。翌日、ミッテランは、権力の空白があると読み、大統領への立候補を表明し、「誰も排除しない、正真正銘の人民政府(gouvernement populaire sans exclusive et sans dosage)」というスローガンを掲げた。これに対し、われわれのスローガンは、代数的であった。「人民政府、よし!ミッテランとマンデス・フランス、否!」だった。われわれにとっては、彼らは中央における回復の象徴であった。同時に、われわれは全てが可能とは考えていなかった。しかしもう一つ別のあり方がありうるとは思っていた。一方で、CGTと共産党の正当性は十分理解されていた。他方、様々な兆候が見られた。軍の内部での大きな反乱はなかった。フェミニストの運動もなかった。その運動は、68年から生まれたのだ。確かに、サクレイにはソヴィエトが存在し、ナンテールにはコミューンが存在した。しかしこれら全てが、少数派であることは認識していた。この文脈において、68年5月は、革命ではなく、そのリハーサルに思えた。われわれの路線は、実践的と言うよりは教育的価値を持っていた。最終的に、われわれのレヴェルでは、大きな愚行はなかったと思う。私は、愚行がなされたのはその後であると考える。 68年5月が大々的なリハーサルであり、本当の「初演」がすぐに、5年後に、行われると本当に信じられていた。そしてそこにおいて、実際に極左的な局面を経験することになった。それは、チリのクーデターの後なので、なおさらだった。その事件は、フランスで左翼が勝利した場合、同じようになるのではという恐怖を抱かせた。それ故、同じ運命を被らないように、準備をしたのだ。

H: 68年5月によって、労働時間は短縮され、賃金は増加し、企業内での組合の権利は獲得されました。しかしながら、このようなエピソードによって、社会の根底的な変化という目標は達成されたわけではありません。なぜでしょうか?

PZ: このような運動が、最終的に数年後に、新自由主義の勝利によって清算されてしまったことは、どのように説明できるだろうか?1968年のフランスには、独自で新しい何かが存在した。そのことは、他の国との関係においてだけでなく、1936年や1945年に対してでもある。長い時間を経て、ついに社会の根底自身が問いただされたのだ。それは、学生だけによってではない。服従関係や疎外された関係を問い直し、職場の幹部を越えようとした労働者のいくつもの証言がある。私の了解では、共産党は社会の根底の動揺を政治的に読み取ることができなかった。共産党はそのような動きを作り出したり、指導したりしなかったばかりか、社会的な諸要求と政治的な諸要求を切り離すという図式の中で活動していたからだ。繰り返しを許してほしいのだが、われわれが目撃したのは、一般委員会(assemblee generale)の実践の出現であり、それと同時に過去に由来する形態の復活であった。例えば、学生運動は、参照枠を捜し求めて、そして象徴的な人物のほうに目を向けるようになった。そのような人物は、20世紀の後半というよりは1960年以前的なものだった。革新と過去のこのようなずれは、共産党にも見出せる。この党は、68年の運動の拡大を、1936年の繰り返しを追及することの他には、見出しえなかったのだ。共産党は、制度的なものの外にあるものに対して政治的な評価をすることを回避した。解決が求められたのは、過去において多かれ少なかれうまくいったものの中においてであった。私にとっては、これこそが、68年5月の諸勢力を特徴付けるものである。あるものは、別のものに比べて、新しい現象に対して注意を払っていたかもしれないが。

DB: ピエールは、自分が経験した共産党の方向性と革新との関係で歴史を分析してくれた。JCRでは、われわれは、そのような執行部の伝統を持たない(Nous n’avions pas de tradition d’appareil)。それゆえ、私の関心を引くのは、68年5月から引き出せる、戦略的な教訓である。1988年に発行されたヒュマニテ紙の記録で、 CGTの幹部は次のように述べている。「ゼネストを呼びかけることは全く考えられていなかった。」ゼネストが行われていたならば、ストは全国規模で組織され、集中され、ミッテランの個人的な企てに対する対抗勢力を形成しただろう。同じ記録で、R.ルロワは書いている。「われわれは、興味深いことを行ったが、強く心に抱いていたことをやりきるには至らなかった。革命や変革を求める願望に対して、われわれは、議会主義的な関心で応じた。次のように述べた。『共同綱領が存在せず、左翼の協定も存在しないので、それは不可能である。必要なのは、運動を過度に長引かせるのではなく、グルネル協定が受け入れられる方向に向かうことである。』」ここに、議論すべき戦略問題が存在する。ワルデック‐ロシェは、68年の教訓の中で、「権力が空白だったというのは本当ではない」と述べている。それに対してミッテランは断言する。「左翼が不意打ちをくらった瞬間があったが、政府のほうがより大きな不意打ちをくらった。事態は、政府が全く影響力を行使することなしに、数週間推移した。」問題は、このような瞬間になされたことを知ることである。このような時に、危機を醸成せずに(危機は必ずしも蜂起や内乱を意味するのではない)、議会や選挙のルーティンにどっぷり浸かっていたのだ。私の考えでは、あらゆることが、可能ではなかったが、その時、ゼネストの圧力をかけるとともに、当時のヨーロッパの状況を考慮して、ミッテラン達が政府の指導的立場に就こうとすることに挑んでいたならば、後の展開は変わっていたかもしれない。

PZ:私は、これらのことを政府の次元だけに位置づけない。度を越してはならないという決定がなされたとしても、問題は、共産党が権力問題を提起することを望まなかったということではない。SFIO(訳注:社会党の前身)との連合がぜひとも必要だと主張しながら、共産党は運動の中で現れた新たな諸勢力を省みずにいた。問題は、それらを、取って代わる勢力として見なすことではなく(それらはたいした力量を持っていなかった)、SFIOと共産党の連合より広い周辺部に結集させるべき勢力と考えることであった。その結果、権力の問題が提起されるだろう。それが、政治の根本問題であり、続く10年を生み出し、ミッテランの勝利の条件を誘発したのだ。というのも、最終的に、68年の直後、ミッテランただ一人が、政治的な「革新」を行った。それは、SFIOを解消し、フランス社会党の名の下に左翼政党を結集させる(1971年エピネイ会議)ことによってである。彼より左の側では、雑多なグループが言い争っていた。

DB:いくつかのことをつけ加える必要がある。私見では、転換は1975年と 1979年の間にある。というのも、68年5月のヨーロッパ規模でのシークエンスは、その時まで続いたからだ。転換は、1975年のポルトガル革命の急停止、スペインでのモンクロア協定、イタリアの緊縮政策の転換と歴史的妥協、などである。フランスでは、1978年の選挙戦での勝利が可能と思われた時の、左翼の分裂であった。このような転換によって、1981年にミッテランが勝利することが可能となった。それは、1968年にゼネストによって彼が政府に入った場合と比べて全く異なった条件の中で勝利したのである。労働運動についていえば、成長と企業によるケインズ的協定の中に置かれていて、労働者はその協約を再交渉して、延長させることができるという幻想を持っていた。このことは大変重くのしかかった。

PZ:私が信じるところでは、ダニエルが示唆した転換を含めて、はやくも68年に感じていた。68年は、8月のプラハの春の圧殺によって、ひどい状態で始まった。ソ連型のシステムの自己を改革する能力に対する希望は失われた。共産党の共同綱領に対する執着もまた、重大な役割を演ずることになった。なぜなら、この問題が左翼の政治的対決の主なテーマとなったからだ。同時に、他も大きく揺れ動いた。アメリカは、黒人の公民権の問題を清算し始め、ベトナムからの撤退を考え始めた。徐々に、アメリカは、人気を挽回する手段を手にした。またちょうどその時、経営者は企業統治の方法を修正し始めた。職長が消滅して、QCサークルや人的資源管理の局長(Directeur de Resources humaines)が取って代わった。つまり実のところ、あらゆる反動的な装置は、社会の中で変化しているものに応じて、動き始めようとしていた。他方で、68年の経験者たちは、その時、自らの要求を増やしたり、維持したりすることができなかった。そのことによって、68年の約束は履行されなかった。

1 (訳注)5月27日グルネル協定と呼ばれる議定書が仮調印される。最低賃金の引き上げ、労働時間の短縮がその骨子。しかしこの協定は、セギCGT書記長自身がおもむいたルノー、ビヤンクール工場を初めとして、下部労働者の一致した拒否にあう。夜シャルレッティ・スタジアムに、フランス全学連主催の集会、三万五千人の学生、労働者が参加。ただし共産党・CGTは参加拒否の指令を出す。他方、学生の左派グループもこれを、曖昧な性格の集会、マンデス・フランスの政治工作としてボイコット。(D.コーン‐バンディ他『学生革命』p161)

新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

68年をめぐる対論(前半)

フランスの「五月革命」40周年まであとわずかですが、今回もこの「五月革命」に関する「対論」をご紹介します。

「68年5月 対論 学生についての論争」
Humanité誌 4月5日付

Pierre Zarka : 以下PZ プロフィールは、先の「この出来事は、自由への道を開いた」を参照
Daniel Bensaid: 以下DB フランスのマルクス主義哲学者。第四インター系の理論家として、機関紙誌を超えて、アカデミズム・メディアで論陣をはる。

H:どのような心持で、若い活動家だったあなた達は、68年に取り組みましたか?

DB: 1968年1月の終わりに、グルノーブル五輪開催中に、ベトナム国際連帯会議の際、ベルリンで大規模なデモを組織した。それは、68年の精神を準備するようなものだった。この流れでまた、パリでアメリカン・エクスプレスに対するデモが起こったが、そこで、JCRの活動家のクザヴィエ・ラングラドが逮捕された。逸話では、3月22日の朝、構内の壁ではなく、学部会館に「ラングランドを解放せよ!」とペンキで書くことが決定された。当時では、こんな違反的な態度を示すことだけで、ナンテールの大きなうねりが引き起こされたのだ。

PZ:本質的に、68年とは世代の問題である。われわれが幼年期を過ごしたのは、解放運動と植民地帝国の瓦解という状況の中である。われわれの両親は、とりわけナチスに対してであるが、勝利者の世代に属していた。科学や科学技術の発展によって、われわれは、高いところに引き寄せられていき後戻りはしないという積極的な感情が与えられた。最後にプラハの春であるが、スターリン主義に対する批判にもかかわらず、資本主義とは別のやり方で、社会を構想できるという気分が存在した。しかし、私はダニエルのような気分ではなかった。例えば、その当時、ナンテールでは、学生は、大学の学生寮の男女混合の禁止に対して反対して闘っていた。UFCでは、そのことで乱痴気騒ぎしていたが、真剣なものではなく、政治的なものでもなかった。時間の経過とともに、このことは、自律、自由、自分のことは自分で決めるという願望になって現れていたが、われわれはこのことを理解できないでいた。加えて、われわれは、共産主義者のグループの、制度的な生活の中に溶け込むという、心に深く根ざした願望 (desir tres profond de la famille communiste de s’integrer dans la vie instittutionelle )を引き継いだ。それゆえ、われわれは、無前提に、暴力や挑発に関わるように見えたものに敵意を持っていた。とりわけ、それが自分たちにはどうしようもない運動に由来する場合にはそうだった。

DB:わたしが、トゥルーズのMJC(青年文化会館)の反対運動に参加したのは、われわれは当時珍しい共学のリセの一つにいたのに、男性活動家と女性活動家が一緒になることを党が拒否したことと関係する。後に、トロッキーの『裏切られた革命』を読んだが、家族の次元でのある種の思想が「家庭におけるテルミドール」の章で扱われていた。また私が影響を受けたのは、B.フランケルの手になる、マスペロ社の Partisan誌だった。彼は、スポーツや性に対する批判を始めたが、それはW.ライヒの『若者の性についての闘争』の海賊版を出版することによってだった。1966-7年には、内密にその著作は広められた。どちらかというとわれわれは、このような雰囲気の中にいたのだ!暴力の問題について言えば、べトナムのテト攻勢プラハの春、メキシコやパキスタンの運動など、国際的に暴力が吹き荒れていた。それに先立って、上海コミューンの転換やチェ・ゲバラの死があった。しかしながら、これらのことによって、暴力は解放的でありうるという考えが与えられた。「権力は、銃から生まれる」と考えられた。

H:現在、ある人々は、68年5月を個人主義の到来の時と考えています。その当時、人々は解放を口にしていました。境界線はどこに存在するのでしょうか?

DB: 当時においては、個人的自由への希求は、連帯や集団的な行動と全く矛盾するものではなかった。人格を肯定できることが、進歩であった。マルクスは進歩の思想を持っていた。つまり、諸個人の欲求をそれぞれはっきりさせることで、人類はよりユニークなものになり、多くの個性から作られるようになると考えたのだ。「私」と述べることが、重要なのだ。問題は、集団的なものが後退し、「私」の暴走が存在する時である。現在、賃金や労働時間や保険の個人化と合致し、個人間の競争の導入と一貫するような個人についての言説が存在する。私の考えでは、正義・平等・連帯を求める組合や政治の実践での「私」と「われわれ」の分離は、68年5月に由来するものではない。反対にそれは、68年からの後退である。そこでは、各人の解放は、全員の解放の条件であり、逆もしかりであると考えられた。解放は、個人的な喜びであってはならない。

PZ:私自身も、個人主義の神話には反対の立場にある。今日、労働の組織の中や日常生活で、非社会化しようとする試みは確かに存在する。しかし、わたしは、拙速に「私」を個人主義に解消しようとは思わない。「私」が存在してから、地球に対する普遍的な関心がもたれるようになり、地球規模で考えるようになったのだ。たとえ、資本主義もまたそのことに関与していても、そうなのだ。確かに、非社会化することで、個人を殻に閉じ込めようとする意思は存在するが、私は、今のところは、それが出現しているものとは思わない。私は、今のところは、どちらかというと、「私」については肯定的な考えを持っている。68年は何か新しいものに直面したのである。それは、AGの実践であった。それは、非常に集団的な様相を呈していたが、同時に個人の自己主張を可能にするものだった。しかし、奇妙なことに、この新しいものに直面することで、過去に由来する一つの形が現れるのを目にしたのである。それこそが、「カリスマ的指導者」のコーン・バンディであり、彼は全員の名において語ったのだ。

DB: コーン・バンディは、今日よく知られている現象を利用することを知り尽くしていた。つまり、彼が熟知していたのは、個人を代表者に仕立て上げるメディアの役割だった。

H:このような自由への希求は、自主管理の登場と手を携えていたのではないですか?例えば、それは、少し後の1973年リップで実験されました。政治的な実践のうえで、自主管理の思想はどのような役割を果たしましたか?

PZ:リップの労働者が実際に経験したのは、68年5月に登場したこの自主管理の思想であった。自主管理が自らに投げかけたのは、企業だけでなく社会に対する別のビジョンであった。

DB: 私の考えでは、自主管理という考えは、68年5月に生まれたものでは全くない。このテーマは、すでに、S.マレやA.ゴルツにあっては、ユーゴなどの経験について議論されていた。この思想は、68年によって増長されたが、それは、自主的な組織という現象に最大限賭けてみようとする願望を伴っていた。それは、言葉の上の問題だけではなく、賭けられたのは、団結と民主主義だった。周知のように、フランスでの組合の状況は、大きく分裂し、闘いの中で構成員の全体によって選ばれた集団を持つことは、例えば、共通の代表を持つことで、団結を強化する一つの方法である。それは、民主主義の一つの形態であり、団結の中で説明責任を果たすということである。

PZ:68年に生まれたのは、ある種の自律へのこのような要求であった。しかし、それは組織された力を無視しているわけでない。そして、おそらくその要求を共産党にみいだすことはできないだろう。『ユダヤ人問題』などでは、マルクスは国家と市民社会の分離を示唆し、それが自己自身に対する個人の疎外や分裂として示した。レーニン主義的な土壌で、われわれは、この考えを理解できなかった。そのことで、一般的には、自然発生的な運動よりも、執行部の制度的性格(caractere institutionelle des appareils)のほうが好意的に受け止められたのだ。そこから生じたのは、集合的なものや「組織化されて」いないものに対する侮蔑である。ところで、先進産業資本主義国、とりわけある水準の文化が存在するところでは、組織化された勢力の付け加えに過ぎない大衆の運動を想像することは全く不可能である。わかってほしいのですが、私は政治的及び組合的な集団的組織を自然発生性に解消しようとすることに同意しているのではないということだ。そんなことは信じていない。しかし、集団的な組織という概念は、最終的には常に国家や教会の組織を少し模したものであり、それぞれ一方には、エリートと「学者」、そして他方に市民社会あるいは迷える羊が存在する。このことは、民主的な結合についての真の問題を投げかける。このことは、われわれを委任的な民主主義という概念の検討に向かわせる。人々は、いつも欠席して、より強いものに身を委ねる。社会党に投票する人をたくさん知っているが、そのうち誰一人としてその党を愛していない。

DB:官僚化は、社会の至る所にある。行政、組合、NGOそしてもちろん政党にも存在する。これらの組織は、個性を疎外するもの、そして組み込まれる危険があるものとして見なされる。しかし、それらの組織は、メディアや金に対して、またわれわれの言葉を奪うものに対してより強力な抵抗の道具でもある。集団的な組織は、民主的な討論の空間を創設しようとする。そのような組織の存在は、私にはますます重要に思える。というのも、ロワイヤルやサルコジがいつも「私」についてばかり口にするのは、偶然ではないからである。人々は、聖体拝礼を行っているのだ。つまり、カリスマ的な個人と世論が、融解してしまっている。そのことで、政党による媒介が抑圧されるとともに、あらゆる将来の見通しについての議論やあらゆる理性的な討議も抑圧される。確かに、権利を仲介するものは、政党ではなく、評議会・自主管理委員会・人民議会である。しかし、そこに提案を行う政党が複数存在することは、民主的な生活の条件である。(続く)


■幅広く5月革命をめぐる議論を見るため、今回はHumaiteの論争を訳してみました。
今回も、文意が取れないところや訳語不自然な箇所が多々あると思います。特に原語を示したところが苦しいです。組織や運動体の訳語の確認が十分できていないので、頭文字だけで示したり、強引に訳しました。

■ダニエル・ベンサイドの著作の一部は、日本語でも読めます。彼の論文が所収された『フランス社会運動の再生』(2001年、つげ書房新社)が手に入れやすいでしょう。そこでの5月革命についての小論は次のように結ばれています。
 「ユートピアの芽生えは低い次元から再び始まる。今日、不可能になっていることを要求すること、それは雇用の権利のために、住宅の権利のために、市民権のために、一歩、一歩闘うことである。これはおそらく『権力への想像力』や『ただちに(社会主義を)』に比べるならばそれほど叙情的ではないだろう。これはそれでも反逆的なのだ。巨人もまた最初は小さい子供だったから。」(171頁)

「明らかにされたもう一人のフーコー」(後半)

以下の文章は「明らかにされたもう一人のフーコー」(前半)の続きになります。
なお、末尾のコメントはピエールによるものです。

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こう考えると、ポール・ヴェーヌが見事に示しているように、フーコーの方法は、非常に謙虚なものである。一般的で普遍的な思想の定義を目指すのではなく、個々のそれぞれの微細な研究に専念する。たとえそれが、「狂気、懲罰、性など」の巨大な総体に関わるものであってもそうである。同様に、古代の「快楽」は、キリスト教中世の「肉」には還元できない。またその「肉」も現代の「セックス」には解消できない。絶対的なものを断念した思想の例に漏れず、どのような概念の一貫性によっても現実の豊穣な多様性を表現し、抑え込むことは出来ないということが帰結される。それ故、フーコーは人間が行う「言説」を無前提に喜んで受入れるのである。P.ヴェーヌは打ち明ける。「彼が、私に喜びと同情と素晴らしい評価でもって、聖アウグスティヌスとその絶えまなくあふれ出る思想について語るのを耳にした。」しかし、この懐疑主義者は、一つの確信を持っていた。その確信がある点までは、次の彼自身の言葉と矛盾をきたしてもたいしたことではない。《La vie a abouti avec l’homme a un vivant qui ne se trouve jamais tout à fait à sa place,qui est voué à errer et à se tromper.》

ポール・ヴェーヌが彼の「英雄」をニーチェの後継者にするのは理由のないことではない。ニーチェとは、同時代人によって生み出された偶像、「民主主義、人権、男女の平等」を全く信じることのない、偶像破壊者である。確かにフーコーは、単刀直入に自らの政治立場を表明した。この点で、彼は哲学者であるよりも、その「激烈さ」と「怒り」によって鍛錬された「戦士」であった。確かに、彼は戦士であったが、芸術家でもあり、常にシルスマリアの孤独者(訳注:ニーチェ)の弟子であった。「私は、生涯を通して取り憑かれたように仕事をしてきた。私は、自分がしていることの大学での評価については全く気にしていない。というのも、わたしの問題は、自分自身を変えることであるからだ。自身の知識によって、自分を変えることは、美的な経験に近い何かであると思う。画家は、自らの絵によって、自らを変えることがなかったら、どうして絵などを描くだろうか?」
 形の定まらない下手な絵や曖昧な素描や粗雑な戯画に対して、ポール・ヴェーヌは、マネをつぶさに見ていた親友を「サムライ」として素描する。その肖像画は、個人的なもので予想に反するものであるが、正確であり、見事なものである。

ピエールのコメント

■この記事は、P.VeyneのFoucault,sa pensé,sa personne (2008)の紹介です。小生は不勉強及びゲルピン(訳注:金欠)の状態にあるため、未読であるのみならず、まだ本書を手にも入れていません。

■フランス語の部分の解釈のご教示お願いします。あわせてこの発言の出典もご存知ならば教えていただければ嬉しいです。 

ネグリのようにフーコーを躊躇なく「革命家」と規定するのには違和感を持ちますが、この記事のように68年と切り離す論調にも、何かの意図を感じずにはいられません。ヴェーヌの著作を未読なのでえらそうなことは言えませんが。

皆様、はじめまして。

Amazonにて古本を販売し始めてちょうど半年が過ぎました。
本格的な古本販売とまでは全くいきませんが、人文系の専門書を中心に少しずつ販売しています。
ほんとに微々たる販売です(泣)。
せめて自分の本代くらいは捻出できればといいなと思い、始めることにしました。

下記サイトにてワン・プラス・ワンの在庫を見ることもできます。
微々たるものですが。

Amazonマーケットプレイス出品者検索−

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私どもで取り扱っている本の一覧をご覧になることができます。
ホントに本が少なくてすみません(汗)。

*このブログはもともとSO-NETにて書いていたものですが、
こちらに引越しをしてみました。SO-NETのURLはこちらです。

http://one-plus-one.blog.so-net.ne.jp/

「明らかにされたもう一人のフーコー」前半

one-plus-one2008-05-14

前回に続きフィガロの記事を紹介させていただきます。
今回は時間の都合上、半分のみの紹介となります。

さて、前回同様、フランス語修行中のピエールによる訳です。
今回は、どうやら苦戦を強いられているようです。英語などと違いその独特の言い回しがあるようです。
ですので、誤訳や誤解などもあるかと思いますし、原文をそのまま掲載する可能性もあります。
もしご覧になっている方でフランス語にお詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひご指導よろしくお願いします。

Un autre Michel Foucault dévoilé

下記URLに元記事が掲載されています。


「明らかにされたもう一人のフーコー

七十年代に左翼にもてはやされたその哲学者は、実際は、マルクスよりもアウグスティヌスを読むのを好む懐疑主義者であった、と偶像破壊的な論文で友人のポール・ヴェーヌは断言する。

英雄たち:アルチュセール、バルト、フーコーラカンドゥルーズデリダ
戦場:コレージュ・ド・フランス、ソルボンヌ、ウルム街の高等師範学校ヴァンセンヌ、ナンテール
旗印:反−人間主義理論、構造主義精神分析マルクス主義、反−精神医学、「68年の思想」

確かに、サン・タンヌ病院でアルチュセールは、かつての師であるジャン・ギトンとともにアヴィラの聖テレーズを再読し、よきカトリックモラリストであるラカンは、68年世代の熱狂を冷笑し、バルトは反近代の古典主義を仕上げた。しかし、その他のものたちにとって、「人文科学」は、形而上学とその理論的虚構が人類の幼少期に属するものに格下げされた後、君主として君臨した。ミッシェル・フーコーは、象徴的な使者のように思えたが、彼の親友であり、コレージュ・ド・フランスの同僚であるポ−ル・ヴェーヌが彼にささげた論文が描く彼はそうではない。その論文は、巧みにできた、偶像破壊的なものである。
考古学者で古代ローマの専門家であるヴェーヌは、前々作の『われわれの世界がキリスト教となったとき』で、広範な読者を魅了したが、彼の教示によって、フーコー古代ギリシャ・ローマに当てられた『性の歴史』の2・3巻は精緻化されることになった。

ミッシェル・フーコーは、1926年にポワチエで生まれた。20年後に高等師範学校に入り、1951年に哲学の教授資格を取得した。彼は心理学に深く関心を持ち、ドゥレ教授のもとサン・タンヌに勤務した。処女作である『狂気と非理性――古典主義時代における狂気の歴史』を歴史家のP.アリエスが監修した叢書としてプロン社から出版した。ニーチェバタイユブランショアルトークロソウスキー、レイモン・ルセール(1963年に試論を上梓することになる)だけでなく、ヌーボーロマンやテル・ケル誌の作家を丹念に読み、彼は1966年に『言葉と物』を発表し、4年後にコレージュ・ド・フランスの「思想体系の歴史」講座の担当に指名される。68年5月の熱気が冷めやらぬ中で、フーコーは、ジャン・マリー・ドムナックとピエール・ヴィダル−ナゲとともに、刑務所情報集団(GIS)を設立した。彼の行動と思想が向かったのは、社会的・政治的・性的マージナルな存在、および社会によって設置される管理と監視の諸手段の研究である。1975年には『監獄の誕生』そして1976年には『知への意志』が発表された。後者は、全6巻となる予定の『性の歴史』の導入部にあたるものであったが、『快楽の活用』と『自己への配慮』を出版し、3巻のみに終わった。ミッシェル・フーコー1984年にAIDSでなくなった。

通説とは逆に、ポール・ヴェーヌは説明する。「フーコーは、構造主義の思想家では決してない。そればかりか、もはやある種の『68年の思想』にも属してはいない。彼は相対主義者や歴史主義者でもなかったし、いたるところにイデオロギーをかぎつけていたわけではない。」反対に、この「いわゆる68年の思想家」、「伝説の68年の体現者」は、「懐疑的な思想家」であり、「改良主義者」であり、「経験論者」であった。「彼は、マルクスも、フロイトも、革命も、毛も信じていなかった。個人的には、彼は進歩主義者の良心をせせら笑っていた。」もし中心人物の行為や考えの大部分が、イデオロギー的な外皮を剥ぐと、伝統の中に書き込まれいるとするならば、68年の5月の知的な革命のうち何が残るというのだろうか。(続く)

サムライたち

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知への意志 (性の歴史)

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