68年をめぐる対論(後半)

「68年をめぐる対論(前半)」の続きです。

H:ピエールは68年の共産党の振る舞いに対する批判めいたものをしました。ダニエル、あなたは、当時のJCR(革命的共産主義青年同盟)の役割をどう評価しますか?

DB: 正確な規模の点から言うと、JCRは、300人の若造で、年長のクリヴァンヌでさえ25歳だった。まずはそういうが、それは、われわれにとっては、政治の知的な実践であったということができる。加えて、われわれは共産主義の洗礼を受け、党と労働者の運動には歴史的な根が存在することを十分知っていた。だから「無頼漢」やある種の毛沢東主義を口にしていたコーン・バンディと違って、われわれは、共産党やCGT(労働総同盟、共産党系の労組)とは異なった関係を持っていた。そこから極左的な展開に出たのだ(Des trucs gauchistes,on en a fait.)。しかし、われわれの政治路線はどのようなものであったか?5月27日1シャルレティで、マンデス・フランスの策動があった。翌日、ミッテランは、権力の空白があると読み、大統領への立候補を表明し、「誰も排除しない、正真正銘の人民政府(gouvernement populaire sans exclusive et sans dosage)」というスローガンを掲げた。これに対し、われわれのスローガンは、代数的であった。「人民政府、よし!ミッテランとマンデス・フランス、否!」だった。われわれにとっては、彼らは中央における回復の象徴であった。同時に、われわれは全てが可能とは考えていなかった。しかしもう一つ別のあり方がありうるとは思っていた。一方で、CGTと共産党の正当性は十分理解されていた。他方、様々な兆候が見られた。軍の内部での大きな反乱はなかった。フェミニストの運動もなかった。その運動は、68年から生まれたのだ。確かに、サクレイにはソヴィエトが存在し、ナンテールにはコミューンが存在した。しかしこれら全てが、少数派であることは認識していた。この文脈において、68年5月は、革命ではなく、そのリハーサルに思えた。われわれの路線は、実践的と言うよりは教育的価値を持っていた。最終的に、われわれのレヴェルでは、大きな愚行はなかったと思う。私は、愚行がなされたのはその後であると考える。 68年5月が大々的なリハーサルであり、本当の「初演」がすぐに、5年後に、行われると本当に信じられていた。そしてそこにおいて、実際に極左的な局面を経験することになった。それは、チリのクーデターの後なので、なおさらだった。その事件は、フランスで左翼が勝利した場合、同じようになるのではという恐怖を抱かせた。それ故、同じ運命を被らないように、準備をしたのだ。

H: 68年5月によって、労働時間は短縮され、賃金は増加し、企業内での組合の権利は獲得されました。しかしながら、このようなエピソードによって、社会の根底的な変化という目標は達成されたわけではありません。なぜでしょうか?

PZ: このような運動が、最終的に数年後に、新自由主義の勝利によって清算されてしまったことは、どのように説明できるだろうか?1968年のフランスには、独自で新しい何かが存在した。そのことは、他の国との関係においてだけでなく、1936年や1945年に対してでもある。長い時間を経て、ついに社会の根底自身が問いただされたのだ。それは、学生だけによってではない。服従関係や疎外された関係を問い直し、職場の幹部を越えようとした労働者のいくつもの証言がある。私の了解では、共産党は社会の根底の動揺を政治的に読み取ることができなかった。共産党はそのような動きを作り出したり、指導したりしなかったばかりか、社会的な諸要求と政治的な諸要求を切り離すという図式の中で活動していたからだ。繰り返しを許してほしいのだが、われわれが目撃したのは、一般委員会(assemblee generale)の実践の出現であり、それと同時に過去に由来する形態の復活であった。例えば、学生運動は、参照枠を捜し求めて、そして象徴的な人物のほうに目を向けるようになった。そのような人物は、20世紀の後半というよりは1960年以前的なものだった。革新と過去のこのようなずれは、共産党にも見出せる。この党は、68年の運動の拡大を、1936年の繰り返しを追及することの他には、見出しえなかったのだ。共産党は、制度的なものの外にあるものに対して政治的な評価をすることを回避した。解決が求められたのは、過去において多かれ少なかれうまくいったものの中においてであった。私にとっては、これこそが、68年5月の諸勢力を特徴付けるものである。あるものは、別のものに比べて、新しい現象に対して注意を払っていたかもしれないが。

DB: ピエールは、自分が経験した共産党の方向性と革新との関係で歴史を分析してくれた。JCRでは、われわれは、そのような執行部の伝統を持たない(Nous n’avions pas de tradition d’appareil)。それゆえ、私の関心を引くのは、68年5月から引き出せる、戦略的な教訓である。1988年に発行されたヒュマニテ紙の記録で、 CGTの幹部は次のように述べている。「ゼネストを呼びかけることは全く考えられていなかった。」ゼネストが行われていたならば、ストは全国規模で組織され、集中され、ミッテランの個人的な企てに対する対抗勢力を形成しただろう。同じ記録で、R.ルロワは書いている。「われわれは、興味深いことを行ったが、強く心に抱いていたことをやりきるには至らなかった。革命や変革を求める願望に対して、われわれは、議会主義的な関心で応じた。次のように述べた。『共同綱領が存在せず、左翼の協定も存在しないので、それは不可能である。必要なのは、運動を過度に長引かせるのではなく、グルネル協定が受け入れられる方向に向かうことである。』」ここに、議論すべき戦略問題が存在する。ワルデック‐ロシェは、68年の教訓の中で、「権力が空白だったというのは本当ではない」と述べている。それに対してミッテランは断言する。「左翼が不意打ちをくらった瞬間があったが、政府のほうがより大きな不意打ちをくらった。事態は、政府が全く影響力を行使することなしに、数週間推移した。」問題は、このような瞬間になされたことを知ることである。このような時に、危機を醸成せずに(危機は必ずしも蜂起や内乱を意味するのではない)、議会や選挙のルーティンにどっぷり浸かっていたのだ。私の考えでは、あらゆることが、可能ではなかったが、その時、ゼネストの圧力をかけるとともに、当時のヨーロッパの状況を考慮して、ミッテラン達が政府の指導的立場に就こうとすることに挑んでいたならば、後の展開は変わっていたかもしれない。

PZ:私は、これらのことを政府の次元だけに位置づけない。度を越してはならないという決定がなされたとしても、問題は、共産党が権力問題を提起することを望まなかったということではない。SFIO(訳注:社会党の前身)との連合がぜひとも必要だと主張しながら、共産党は運動の中で現れた新たな諸勢力を省みずにいた。問題は、それらを、取って代わる勢力として見なすことではなく(それらはたいした力量を持っていなかった)、SFIOと共産党の連合より広い周辺部に結集させるべき勢力と考えることであった。その結果、権力の問題が提起されるだろう。それが、政治の根本問題であり、続く10年を生み出し、ミッテランの勝利の条件を誘発したのだ。というのも、最終的に、68年の直後、ミッテランただ一人が、政治的な「革新」を行った。それは、SFIOを解消し、フランス社会党の名の下に左翼政党を結集させる(1971年エピネイ会議)ことによってである。彼より左の側では、雑多なグループが言い争っていた。

DB:いくつかのことをつけ加える必要がある。私見では、転換は1975年と 1979年の間にある。というのも、68年5月のヨーロッパ規模でのシークエンスは、その時まで続いたからだ。転換は、1975年のポルトガル革命の急停止、スペインでのモンクロア協定、イタリアの緊縮政策の転換と歴史的妥協、などである。フランスでは、1978年の選挙戦での勝利が可能と思われた時の、左翼の分裂であった。このような転換によって、1981年にミッテランが勝利することが可能となった。それは、1968年にゼネストによって彼が政府に入った場合と比べて全く異なった条件の中で勝利したのである。労働運動についていえば、成長と企業によるケインズ的協定の中に置かれていて、労働者はその協約を再交渉して、延長させることができるという幻想を持っていた。このことは大変重くのしかかった。

PZ:私が信じるところでは、ダニエルが示唆した転換を含めて、はやくも68年に感じていた。68年は、8月のプラハの春の圧殺によって、ひどい状態で始まった。ソ連型のシステムの自己を改革する能力に対する希望は失われた。共産党の共同綱領に対する執着もまた、重大な役割を演ずることになった。なぜなら、この問題が左翼の政治的対決の主なテーマとなったからだ。同時に、他も大きく揺れ動いた。アメリカは、黒人の公民権の問題を清算し始め、ベトナムからの撤退を考え始めた。徐々に、アメリカは、人気を挽回する手段を手にした。またちょうどその時、経営者は企業統治の方法を修正し始めた。職長が消滅して、QCサークルや人的資源管理の局長(Directeur de Resources humaines)が取って代わった。つまり実のところ、あらゆる反動的な装置は、社会の中で変化しているものに応じて、動き始めようとしていた。他方で、68年の経験者たちは、その時、自らの要求を増やしたり、維持したりすることができなかった。そのことによって、68年の約束は履行されなかった。

1 (訳注)5月27日グルネル協定と呼ばれる議定書が仮調印される。最低賃金の引き上げ、労働時間の短縮がその骨子。しかしこの協定は、セギCGT書記長自身がおもむいたルノー、ビヤンクール工場を初めとして、下部労働者の一致した拒否にあう。夜シャルレッティ・スタジアムに、フランス全学連主催の集会、三万五千人の学生、労働者が参加。ただし共産党・CGTは参加拒否の指令を出す。他方、学生の左派グループもこれを、曖昧な性格の集会、マンデス・フランスの政治工作としてボイコット。(D.コーン‐バンディ他『学生革命』p161)

新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

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