68年をめぐる対論② アラン・トゥレーヌとマルセル・ラカブ(2)

AT:フランスは、200年間教会と国家の闘争によって、支配されていたことを付け加えておきましょう。人口の半分は、国家の側にいて、リベラルであり、残りの半分はカトリック教会の側にいて、保守的です。68年では、学生の大半は、中産階級の出身で、そこでは広い意味でのカトリックの割合が依然として高いのです。しかし、インテリと反教会の活動家は、非常にリベラルで、権利意識の強い傾向を持っていました。若者の自律性は、文化的なものが命じる事実によって規定されますが、ともかく、68年5月こそが、その自律性を生み出したのです。例えば、シューレアリズム運動を取り上げましょう。そこにホモセクシャルがいたことは間違いないのですが、若者は決していなかったのです。植民地戦争が終わる、1962年までは、人々が口にしたのは、若者ではなく、反抗(insoumission)でした。

L:フランスでは、Neuwirth法ができたのは、1967年です。ヨーロッパのいくつかの国では、ピルの解禁はずっと前でした。

M.L: フランスでのピル解禁や中絶に対する遅れは、出生率に対する政策に起因する。19世紀末、フランスは人口に関心を持ち始めた。というのも、優れた兵士を生み出すには、住民は健康であるとともに、もっと増える必要があった。どのような犠牲を払っても、子供を生む必要があった。法律的・経済的報償を与えられることで、独身女性は、子供を生むことを促進された。だから、ピルは、祖国に対する攻撃あるいは裏切りであった。中絶は禁止されていたにもかかわらず、19 世紀末まで、新聞には「堕胎業(faiseuses d’anges)」という小さな広告が出ていた。多くの嬰児殺しがあったが、告訴されることはまれだった。突然、ピルと中絶に対する馬鹿げたキャンペーンが起り、1920年には法律が作られることになる。他の国は、「選択」の政策を選んだが、その考えは、全ての人が子供を生む必要がないというものだ。ナチスのドイツを除いて、これらの国々は、1930年代からピルをまさに認めていたのだ。20世紀(→19世紀)初頭の、ナポレオン時代の最初の結婚の危機の影響の一つは、私生児の地位(正式な子供のものより劣るのであるが)を認めることであった。その目的は、フランス市民を増やすとことだった。しかし、私生児には社会的な汚点が付きまとったので、その数は少数のままで、19世紀の初頭から70年台までほぼ一定だった。しかし70年から、その数は爆発的に増大した。私的な世界は、もはや結婚によって支えられないのだ。

AT:振る舞いに対する、統制が失われました。

ML:私の考えでは、結婚とは異なる土台を基点として、社会を再編しようとする意思がむしろ問題になっているということです。私的な圏域は、今後性的な関係の周りに気づき上げられるだろう。新たな家族形態の軸は、自ら生む生まないを決める、出産年齢にある女性である。つまり、自分の欲求を持った母親です。

AT: 1967年のピルの解禁の議論は、そのことによって中絶が制限されるというものでした。ところが実際はそうなりませんでしたが。ようするに、正当化は、社会的次元のものでした。68年では、もはや人々が考えていたようなものではありませんでした。大きなことは、ある部門の自律化、つまり習俗の自律化です。これは、もはや国家の指示に従わないのです。

ML:反対に私の考えでは、性的な関係が、これほど国家によって組織され、監視されたことはないということである。70年代の改革の後、国家は私的な生活のあらゆるところに存在するようになった。68年のちょっとした逆説だ。

L: 5月の叛乱の直後の諸立法は、いずれにせよ優れたものではないしょうか。

ML: もちろんだ。すばらしいことに、1970年に、法は夫婦共同の親の権威を認め、1972年には正式な子供と私生児の平等が認められた。そのことで、決定的に結婚は破壊されることとなった。それに続き、1974年には成人が18歳となり、1975年には双方の同意による離婚が認められ、同じ年に中絶が認められた。70年代は性と家族における新しい秩序を打ち立てたといことには議論の余地はない。1975年から、事態は悪化し始めた。ちょうどその時登場したのは、極左のグループで、弾圧を要求して、監獄を求めて闘った。私が言っているのは、強姦の問題にかかわるフェミニストのグループのことだ。19世紀末、裁判官は、強姦に対する刑が厳しすぎると考えていた。それゆえ、彼らは、軽罪である公然わいせつ罪を適用して、軽い刑を下した。しかし、この傾向は、40年台末に、反転し始めた。その後にきたのは、爆発だった。1976年に始まる、強姦に対するフェミニストの闘争は、先立つ法にかかわる政治の中に書き込まれているが、前衛の側では、特に驚くべきものだった。そしてそれは、大転換だった。監獄は、悪い男性から救ってくれると見なされた。この転換が、より滑稽に見えたのは、当時他のものは、監獄の廃止を語っていたからだ。そこからまた、「あらゆる性的な関係は強姦である」というような亜流が生まれた。私にとっては、これは68年の終焉である。監獄を救いと考えるのは、むしろスターリン的なものである。

AT:あなたが述べたことは、68年の文化的要求ではありません。1975年から、リベラルの時代に入ったのです。世界中の国で管理された経済は後退し、その後10年足らずで、世界はリベラルになってしまいました。伝統的に、経済的なリベラルは、文化的には抑圧的です。このときこそが、現在異常なものとなっている抑圧的な過程のはじまりです。70年代の半ばと今日の間に、大きな後退が見られました。再犯の可能性のある性犯罪者の終身刑の議論は、30年前には考えられなかった。

L:各々反動的な法は、反対されながらも、可決され、自由を侵害しようとする陣営を強化しています。

ML: それが、明らかに、この30年以上の間で、フランスで起ったことだ。しかし、ナポレオン時代の家族のモデルを再び取り上げてみよう。私は、それを擁護しようとするのではないが、当時、国家は、主に家族における、生活習慣の規制を、個人に委ねたのである。同時に、国家は諸個人間の関係には、不干渉の立場を取った。性的な関係によって、国家は、諸個人が他人になしうる無限の悪を考える見事な手段を手にすることになった。今日根付いている考えは、個人的な関係において、個人は残虐な悪をなす可能性があり、国家は調停者の役割を果たさなければならいというものだ。こうして、ますます強化される刑法上の抑圧が正当化される。国家を軽蔑するのではなく、われわれは、身近な人たちを軽蔑し、国家に保護を求めている。(続く)

フェミニズムが話題になっていますが、この分野に関しては暗いので、訳していて勉強の必要を感じました。手元にあったフランス史の本(服部春彦・谷川稔『フランス近代史』)には、「フランス近代における家族と女性」という章が最後に設けられ、68年以後のファミニズムについて言及があったので、その部分を引用しておきます。
 「女性解放運動の頭文字をとったMLFは、ジャーナリズムのつけた呼び名であって、自称名ではなかった。当時のこの運動には、人目を引かずにはいない自発的な集まり方と盛り上がり方があった。MLFは、『妊娠中絶をした女性、未婚の母、なぐられた女性、売春婦、ブルジョア女性、プロレタリア女性、離婚した女性、同性愛の女性、異性愛の女性、強姦された女性といった抑圧された女性をそれぞれ切り離してかんがえるのではなく、むしろあらゆる女性のたたかいに共通する場』をつくろうとした。一言でいえば、これは自分たちの母親たちのような結婚をしたり、自分たちが育ったような家族をつくることを否定する性革命の運動であった。1970年代のフェミニズム運動は近代家族の解体をめざすことによって、従来のフェミニズム運動にはなかったほどの、思想と現実を根底から変えようとする運動となったのであった。」(同書294-5頁)

フランス近代史―ブルボン王朝から第五共和政へ

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