映画「休暇」

 もう6月になりました。12月25日よりAmazonにて古書販売を始めていますのでちょうど6ヶ月目に入るわけです。これまでに多くの皆様にご利用いただきました。ありがとうございます。
 さて、今日は映画紹介です。6月7日から全国にて上映される映画「休暇」です。監督は門井肇
原作は吉村昭『蛍』に収められている短編「休暇」。死刑囚と刑務官の話ですが、この映画によって初めて刑場における「支え役」というものを知りました。死刑という制度の存在は「当たり前」のように言われていますが、実はわれわれは何も知らないのではないでしょうか。そうしたことも含めて、とても気になる映画です。
 ちなみに、この映画については「ビデオニュース・ドットコム」で知りました。通常は有料なのですが、今週は5金ということで無料放送中です。

蛍 (中公文庫)

蛍 (中公文庫)

100歳に近づき、LSDの生みの親は、自らの「問題児」について考える

 今年の4月29日、スイスのバーゼルで、102歳の化学者が天寿を全うし亡くなりました。サルコジのような保守派が「道徳的堕落」として指弾するカウンター・カルチャー・ムーブメントと浅からぬ因縁を持つこの老人を取材した記事をNew York Timesから紹介します。

N.Y Times Jan7.2006

「100歳に近づき、LSDの生みの親は、自らの「問題児」について考える」 By Craig S.Smith

 LSD の生みの親、アルバート・ホフマンは、スイスのアルプスの芝に覆われた丘の上の近代的な自宅の小さな隅のオフィスを端から端へゆっくり歩いた。彼は、訪問者に晴れた日には前方に広がる眺めを見せようとしていた。しかし、ちょうど丘の尾根の上には、白い霧の広がりだけが垂れ込めていた。代わりに、彼は机の上のその風景の写真を取り上げた。その写真は、おそらく訪問者に窓枠の向こうの風景について納得させるために、置かれていたのだろう。

 ホフマン氏は、水曜日に100歳になる。その100歳の区切りは、近隣のバーゼルでのシンポジウムによって祝われることになっている。そのシンポの主題となるのは、彼が発見し、周知のように、ブレークの認識のドア1(Blakean doors of perception)を開け、世界中で、意識に変化を引き起こした化学物質である。齢を重ねるに従って、彼は対話するごとに、執拗に一つの主題に執着した。その主題とは、人間と自然の一体性とその事実に対してますます注意が向けられなくなっていることの危険性である。

 「生きている自然との接触を失うことは非常に危険だ」と、緑のアームチェアに座った彼は、右に体を傾けながら言った。そのアームチェアからは、霜まじりの野原と雪に彩られた木々を見渡せる。彼の前のコーヒーテーブルには、ガラス製の水差しに、バラの花束がさしてあった。「大都市には、生きた自然を見たことがない人が多く住んでいるし、全てのものは人工のものだ」と彼は述べた。「都市が大きくなればなるほど、人々は自然を見なくなり、理解できなくなる。」さらに次のように述べた。「そしてまさにLSD(彼は「問題児」と呼ぶ)こそが、人々と宇宙を結びつけるのに役に立つのだ。」

 ほぼ百歳になり、ホフマン氏の体は衰えを示すが、頭脳は明晰だ。彼の話は脱線しがちで、少年時代の記憶をうれしそうにゆっくりと辿るのだが、彼の澄み切った目が輝いたのは、スイスのバーデンの北にある丘で90年以上に森の道での経験の記憶を語った時だった。その経験によって、彼は自らが「奇跡的で、力強く、計り知れない現実」と呼ぶものをもう一度垣間見たいと思うようになった。

「私は、自然の美に完全に驚愕した」と少し節くれだった指を鼻に当て、彼は言った。彼の長い白髪は、こめかみと頭頂部から後ろに撫で付けられていた。彼によれば、神秘主義者でない科学者はだれも、本当の科学者ではない。「外部にあるのは、純粋なエネルギーと無色の物質である」と彼は述べた。「それ以外の全ては、われわれの感覚のメカニズムを通して生じるのである。われわれの眼が見るのは、世界にある光のほんの少しの部分に過ぎない。色のついた世界を作り出すというのは、トリックなのだ。なぜなら色のついた世界は、人間の外部には存在しないからだ。」

 特に彼が惹かれたのは、植物が太陽光線を自らの体の構成部分に変えるメカニズムであった。「全てのものは、太陽が植物界を経由することで存在するのだ」と彼は述べた。

 ホフマン氏は、科学を研究し、スイスの製薬会社サンドズ研究所に就職した。というのも同社が、医学的に重要な反応性がある化合物の特定・合成のためのプログラムを開始していたからだ。彼がすぐに取り掛かったテーマは、ライ麦の中で成長する毒性の麦角菌だった。助産婦は、出産を早めるために、何世紀にもわたってその菌を利用してきたが、科学者は、薬理学的な効果を生みだすその物質を取り出すことに成功してはいなかった。ついにアメリカの科学者が、その反応性のある化合物がリセルグ酸(lysergic acid)であることをつきとめた。それを受けて、ホフマン氏が着手したのは、薬理学的に有効な化合物を求めて、その不安定な科学物質と別の分子を結合させることだった。

 麦角に関する彼の研究は、いくつかの重要な薬を生み出したが、その代表的なものには、産後の出血多量を防ぐために今でも使用されている化合物がある。しかし、彼が合成したLSD(lysergic acid diethylamide)こそが、最も大きな衝撃を持つことになった。1938年に最初に彼がそれをつくりだした時は、全く有意な薬学的な結果はでなかった。しかし、彼は麦角の研究を完成させたとき、LSD−25の研究に立ち返ることを決心した。というのも、実験を改善すれば、自らが望んでいたような身体の循環器系に対する刺激効果を測定できると考えたからだ。1943年の4月の金曜日の午後、その薬を合成している時に、彼は、あの有名となった、意識の状態の変化をはじめて経験したのだ。「すぐに、私が子供時代経験したのと同じものだとわかった。原因が何か分からなかったが、重要であることは分かった」と彼は述べた。

 次の月曜日に研究所に戻った時、彼は自分の経験の原因をつきとめようとした。彼は、最初は、ずっと使ってきたクロロフォルムのような溶媒の煙によるものだと考えた。しかし、その煙を吸っても何の効果もなかった。彼が悟ったのは、微量のLSDを吸引したに違いないということだ。「LSDが、私に話しかけた」とホフマン氏は、楽しげに、生き生きした笑いを浮かべて述べた。「そして彼が私のもとに来て言った。『お前が、私を発見しなければならない。私を薬理学者に渡してはいけない、何も発見しないから。』」

 彼は、その薬で実験を行い、ごく微量を摂取した。その量では、当時知られている最も毒性の高いものであっても、ほとんどあるいは全く影響のないくらいであった。しかしLSDの結果は、強力な経験であった。その時、彼は自転車で家路についたが、助手に付き添われた。後に、その日の4月19日は、LSDの熱狂者には、「自転車の日(bicycle day)」として記憶されることになった。

 ホフマン氏は、サンドズ研究所の実験に参加したが、その経験は恐ろしいものと思い、LSD は、注意深く管理した状態でのみ、使用されるべきだと考えた。1951年、彼は、ドイツの小説家のエルンスト・ユンガー(この時点で、彼はメスカリンの実験をすでに行っていた)に手紙を書いて、一緒にLSDを摂取することを提案した。彼らは、ホフマンの自宅で、バラとモーツアルトの音楽と焼香の中、 0.005ミリグラムの純粋なLSDを摂取した。「それが最初のサイケの実験計画だった」とホフマンは述べた。

 彼によれば、彼は、その後何十回とLSDを摂取し、一度「ホラートリップ」と自ら名づけるものを経験した。それは、彼が疲れていて、ユンガーがアンフェタミンをはじめてくれた時のことだった。しかし、幻覚に溺れていた日々は、もう昔のことである。

 「私は、LSDをよく知っている。もはや必要はない」とホフマン氏は述べた。「たぶん必要なのは、A.ハクスリーのように死ぬときかもしれないがね。」A.ハクスリーは、死因となった咽頭癌の臨終の苦しみを乗り切るために、LSDの注射を妻に依頼したのであった。

 しかし、ホフマン氏はLSDを「魂のための薬」と呼び、地下に追いやる、世界規模での禁止には、失望している。「心理分析において、LSDは、10年間うまく利用されていた」と彼は述べた。続けて、LSDが1960年代の若者の運動によってハイジャックされてしまい、運動が反対していた体制側によって悪魔扱いされた。彼は、LSDは危険なものになる可能性があると述べ、T.Learyらによる配布を「犯罪」と呼んだ。

 「LSDは、モルフィネと同じ資格の管理統制された薬物にするべきだ」と彼は述べた。

ホフマン氏は、38年前に建てた家に妻と一緒に住む。彼は、4人の子供を育てたが、そのうちの一人がアルコール中毒で苦しみ53歳で死ぬのを見届けた。彼には、5人の孫と、6人のひ孫がいる。彼の知っている限りでは、彼の妻を除いては家族では誰も、LSDを試したことはない。

 ホフマン氏は、少し前かがみ気味で、身長はほぼ5フィートくらいだが、立ち上がって、腕で支える杖を持って、家を歩いて出た。LSDは死に対する理解を深めたかと尋ねられると、彼は少し驚いて、いやと答えた。「私は、もともと居た場所に、つまり生まれる前にいた場所に戻るのだ。ただそれだけのことだ」と彼は述べた。


■この記事には後に訂正が附される。Timothy Learyについての部分が、翻訳の問題から誤りであり、次のように訂正された。「ホフマン氏によれば、Learyがサイケ薬を広めたことには同意できないが、Leary達のLSDの配布を『犯罪』と呼んではいないということだ。」

68年5月のバリケードは未だフランスを二分する(後半)

「68年5月のバリケードは未だにフランスを二分する」(後半)

 しかし、こうした記念には、洒落た悪ふざけも存在する。デザイナーのソニア・リキエルアニエスbは、あらゆる雑誌で1968年5月に対する見解について議論しているし、どのチャンネルをつけても、ドキュメンタリーと討論が流れている。さらには、ヴェトナム生まれのジャン・ディン・ヴァンは当時自分が作ったシルヴァーの敷石のペンダントを再び発表した。その目的は、「自由の40年を祝うため」であるが、彼の場合は、祝うのは自らの成功だろう。ちなみに鎖がついた最も小さいもので、275ドルする。
 店の色がホットピンクの高級グルメ店であるフォションでさえ、時流に同調している。フォションが販売しているのは、「68年5月茶」と呼ばれる中国産の緑茶が入ったメタルボックスで、それには当時のスローガン(「詩は通りに存在する」や「想像力が権力を奪う」)などが添えられている。そのお茶は、「異国のフルーツ、グレープ・フレーツ、微量のレモンの皮、薔薇の花びらの微妙な香り」と謳われているが、フォションは、それを「革命の香りのするお茶」と呼ぶ。価格は、約23.5ドル。

 サルコジ自身、その精神に入っていこうとしている。4月に彼は、コーンバンディと合った。コーンバンディは、『68年を忘れろ』という自著を贈呈し、それにいたずら書きを添えた。「ニコラへ。想像力は権力を奪う、それはいつのことだろうか?挨拶申し上げます。ダニー」サルコジは、笑って、「読んでおくよ」と言っていたと、コーンバンティは述べた。

 「68年を忘れろと私は言う。それは、終わっている。今日の社会は、1960年代の社会とは何の関係もない。われわれが、反権力を自称していた時、闘っていたのは、全く違う社会だった」と彼は言った。

 ジャン・ピエール・ルゴフは科学研究国立センターの社会学者であるとともに、『68年5月、不可能な遺産相続』の著者である。彼によれば、1968年5月は、「誰のものでもない。」しかし彼は、世代間の深い断層、すなわち大きな隔たりを見出す。次のように続ける。「圧倒的多数の学生が、歴史の舞台にはじめて主役として登場した。そして実証主義進歩主義イデオロギーが存在した。」

 現在、フランスは不況で、「若者は全てを恐れている」とも彼は述べた。

 ナンテール校は、パリのはずれにあり、生徒数3万2千の不規則に広がった大学である。そこで、図書館のポスターが宣伝していたのは、「分析の現在的有効性と若干の修正の必要」と題したマルクスについての講義だった。ある学生は、マルクスの頭にXをつけ、「こんなものは全て終わりだ!」と書いた。

 1968 年には、学生が望んだのは、両親よりは自由で、よりよい生活だったとすれば、今日の学生は、今のままの生活を送ることを望んでいる。トマ・ワスタンは、 24歳で、人事管理を勉強しているが、彼によれば、学生は大きな社会の映し鏡であるということだ。「40年前は、全てを変えることが望まれた。今日学生は確かに自己中心的ではないが、彼らは手にしているものを失うことを恐れているのだ。今日、デモでは、『体制には触れるな』と言う。」

 ラファエル・フロワドは22歳の芸術史専攻で、ポニーテールでひげを生やしている。彼によれば、1968年の本当のインパクトは、政治的なものではなく、個人的なものである。

「僕たちにとっては、これら全ては抽象的です。僕たちが育ったのは、大部分の両親が離婚して、子供たちはネオ・リベの攻撃の矢面に立っている世界です。1968年によって、両親たちは変わりましたが、変わるはずだった世界は、変わりませんでした」と彼は述べた。

 22歳のグレゴワ―ル・ル・ベールは言う。「今日、彼らのようには、僕たちは新たなシステムを構想することはできません。しかし、世界をずっとよくすることは可能です。」と彼は、環境問題や社会的正義を引き合いにだした。

 ヴィルジニィ・ミュレは、21歳の歴史専攻である。「私たち皆が心配しているのは、このフランスでどのように働くかということよ」と彼女は述べた。1968年5月については、「こんなにもすると、少しやりすぎね。例の老人たちが、自分たちを祝福しているだけだわ。」

■コーンバンディが自著に添えたのは原語では次の通り。”Pour Nicolas,l’imagination au pouvoir, c’est pour quand? Salut,Dany Cohn-Bendit” 彼がサルコジとの面会後には、「心配も安心もしていない。政治的な相違点は存在する。興味深いのは、彼はヨーロッパに仕えるフランスの大統領に本当になろうとしていることで、これは今までになかったことになるだろう」と述べている。
メタルボックスがいかなるものか興味がある人はクリックしてみてください。
FauchonのHP(仏)です。
http://www.fauchon.com/fr/fr

68年5月のバリケードは未だフランスを二分する(前半)


今回の記事はニューヨーク・タイムズからです。内容的にはとても分かりやすいかと思います。 サルコジという存在が68年を抜きには語れないという指摘は面白いです。

ニューヨーク・タイムズ 08・4・30

Barricades of May ’68 Still Divide the French

「68年5月のバリケードは未だにフランスを二分する」

 40 年前、ネクタイとボビー・ソックスを身に着けたフランス人の学生は、警官に向かって投石し、動脈硬化を起こした戦後の体制の変革を要求した。現在、フランス人学生の悩みの種は、就職できるかどうかであり、また国の給付を打ち切られることであり、現状維持を求めて、街を行進するのである。

 1968 年5月は、フランス人の生活にとっての分水嶺、つまり多くの人にとっては解放という聖なる瞬間だった。その時、若者は団結し、労働者は耳を傾け、ドゴールの半分王党派のフランス政府は慄いた。しかし、サルコジ現大統領(彼は当時13歳だった)のようなその他の人にとっては、1968年5月が表すのは、アナーキーであり、道徳的な相対主義である。つまりそれは、彼の容赦ない言い方を借りれば、「清算されねばならない」、社会的・国家的価値の破壊である。

 40年前に起こったことを巡る激しい論争は、全くフランス人的なものである。呼び名を巡ってさえ争いがある。右翼は「出来事」と呼び、左翼は「運動」と呼ぶ。

 若者の反乱は西側世界を席巻するが、それはアメリカの反ヴェトナム戦争の抗議から、激動のロンドンのローリング・ストーンズや最後には西ドイツのバダー・マインホフ一派に至るのだが、フランスは、ベビーブーム世代の反抗が真の政治革命に接近した国である。単なる階級・教育・性的な振る舞いに対する息の詰まるような社会的な支配に対する反発だけではなく、1千万の労働者がストを行った。

 アンドレ・グリュックスマンは、当時の主たる関係者であり、現在も著名な「メディア知識人(public intellectual)」であるが、彼によれば、1968年5月は、「讃えるべき崇高な記念碑であるか、それとも消し去りたい忌むべき記念碑のどちらかである。」

 「それは死体であり、誰もがそこから何かを掠め取ろうと望んでいる」と彼は述べた。

 グリュックスマンは、71歳で、今もってビートルズばりのヘアースタイルをしている。彼は、28歳の映画監督である息子のラファエルと、『ニコラス・サルコジに教える68年5月』を著した。

 サルコジは、社会党の候補者と争った一年前、辛らつな選挙演説を行い、その中で1968年5月と「左翼の後継者」を攻撃した。彼は、「道徳・権威・労働・国民の一体性」の危機に対する非難をその後継者たちに浴びせた。彼の攻撃の矛先は、「左翼のキャヴィア(すなわち左翼の美食家)のシニシズム」に向けられた。

 1968年においては、「希望は、ボルシェビキ革命のように世界を変革することだった。しかしそれが未完であったのは必然であり、国家の諸制度は無傷のままである」とグリュックスマンは述べた。「われわれは、祝っているが、権力の座にあるのは、右派である。」

 さらに彼によれば、フランスの左翼は、「精神的なこん睡状態にある。」

 ラファエル・グリュックスマンは、1995年に彼にとって初めての高校でのストの先頭に立った。その彼によれば、彼の世代は、反抗的な父親たちに対するノスタルジーは持っていても、経済的な不況の時代においては、戦いは望まないということである。

「若者は、今デモをしているのは、あらゆる改革を拒否して、先生たちの権利を守るためです。私たちには、オルターナティブはありません。私たちは、方向性を失った世代なのです。」と彼は述べた。

 40 年前の出来事(運動)は、5月にナンテール校で開始された。パリの郊外にあるナンテールでは、ドイツ生まれのフランス人であるダニエル・コーンバンディが寮に関する規則(男女が寮で同室できる時間についての規則)に反対するデモの先頭に立ち、それが手におえないものになった。

 大学が5月の最初に閉鎖されると、怒りはパリの中心に、カルチェラタンやソルボンヌにも広がった。学生のエリートたちは、化石化した大学の規則に反対してデモをした。さらに、怒りは外側の大工場の労働者にも及んだ。

 バリケードや警官の突撃や催涙ガスの場面は、フランス人にとってはお馴染みのものであり、雑誌や何十冊もの本で取り上げられた。そのような本の一冊に、現在84歳の写真家のマルク・リブゥの『敷石の下に』がある。このタイトルは、現在欧州議会の議員であるリーダーであり道化役であったダニエル・コーンバンディの当時の有名なスローガン「敷石の下には、海辺があった」を引用したものである。コーンバンディは、彼の政治的立場と髪の色から「赤毛のダニー」として知られていたが、他のスローガンも彼の手によるものと考えられている。それらは、「禁止することが禁止されている」と「限界なしに生き、縛られずに楽しめ」というものだ。後のほうの「楽しめ(jouir)」は、性的な絶頂という二重の意味を持っている。

 禁止命令は、特に潜在的な力を有していた。というのも、フランスは、厳格な国であり、 避妊ピルが解禁されたのはほんの一年前のことだからである、と当時のもう一人のリーダーアラン・ガイスマールは述べる。

 ガイスマールは、物理学者で、18ヵ月投獄され、後に政府の大臣の参事官を勤めることになるのだが、自身の著作『私の1968年5月』を著した。

 現在、元毛沢東主義者のガイスマールは69歳で、iフォンを利用している。うれしそうに、彼の音楽リストを見せくれたが、ほとんどがモーツアルトだった。

 「運動は、政治革命としてではなく、社会革命として成功した。ド・ゴールの政府は警察力をもって応戦し、学生が大統領宮に進撃した場合に備えて、軍隊を動員したが、そのような考えは、学生のリーダーには思いつきもしなかった。彼らは、革命を口にこそすれ、実行する意志を欠いていたのだ」と彼は述べた。

 彼によれば、最も重要なことは、その運動は、フランス共産党の終わりの始まりであったことだ。当時共産党は、統制できない左翼の若者の反乱に真っ向から反対した。

 さらにその左翼の若者たちは、大企業の組合に対する共産党の権威を何とかして大きく揺るがすことに成功した。

 「68年5月当時の社会は完全に塞がれていた。それは、第二次大戦前の社会に対する保守的な反動であり、アルジェリア戦争とベビーブームによって揺るがされ、学校はひどく生徒で溢れかえっていた」と彼は述べる。

「離婚歴のあるサルコジは、エリゼ宮のディナーには招待されなかっただろうし、ましてフランスの大統領には選ばれなかっただろう。」と彼は続ける。「外国人でユダヤ系の先祖を持つサルコジの目覚しい私生活および政治の成功は、1968年がなかったら考えられないだろう。ネオコンは、68年なしに考えられないのだ。」

 アンドレ・グリュックスマンは、「金メッキを施した博物館であるフランス」を近代化し、「崇められている国家」の力を縮小させる最大のチャンスであるとして、サルコジを依然として支持している。その彼は、サルコジが1968年の出来事に対して選挙中激しく攻撃することを面白がっている。

 「サルコジは、最初のポスト68年世代の大統領だ。68年を清算することは、自分自身を清算することである」とグリュックスマンは述べる。(続く)

■今回は、「5月革命」の40周年に揺れるフランスについてのニューヨーク・タイムズの記事を紹介します。
■一連の事態を「運動」と呼ぶか、「出来事」と呼ぶかで、政治スタンスがわかるという点が興味深くおもいました。必ずしもそうなのかという気もしますが。紹介したY.C.Zarkaは「出来事」と述べていますが、サルコジには批判的だったと思います。
■ここまでは、政治の話ですが、次回にはソニア・リキエルやFauchonが登場します。ご期待を。

思想の首領たち (1980年)

思想の首領たち (1980年)

危険な純粋さ

危険な純粋さ

マルクス葬送 (1983年)

マルクス葬送 (1983年)

68年をめぐる対論② アラン・トゥレーヌとマルセル・ラカブ(3)

「1968年若者は私生活をわがものとした、2008年犠牲者であるということが幅をきかす」

L:反抗の原動力になった、性的な関係(sexualite)は、それ故、国家に対して保護のための抑圧的な法を要求する女性に道を開いたということですね。

ML:それは、今日全ての人々に当てはまる。今後は、全ての主体は、脆弱なものと見なされた。そして、現在の刑法のあらゆるデマは、犠牲についてのデマである。

AT: 実際、われわれが目撃したのは、フェミニズムが非‐フェミニズムに変質したことです。非‐フェミニズムとは、犠牲となった女性を告発することです。女性は、世紀の初めからそうであったような、能動的な行為者ではもはやなくなりました。今日、人々は行動を信じていません。行動を信じるということは、君主に対する政治的行動や、とりわけ労働者の運動を信じるということです。70年代から、労働者の運動は消えてしまいました。その時以来、目に見えるような運動が存在しない中、否定的な定義が、知的な生活を支配するようになりました。そのような極端な例が、ブルデューです。彼は、「私は、人を定義するのは、人が被っているものによってである」と述べます。しかし、抵抗することができないと考えられるのは、この人が、操作されたシステムあるいはイデオロギー的な正当化によるシステムにがんじがらめになっているからです。68年はそれとは全く別です。そして、この反抗の後、実際目撃されたのは、ある種の後退であり、それは国家の側にだけ生じたのではなく、とりわけフランス社会全体に存在しています。最終的には、68年の思想は根付くことはなかったと言えます。確かに、習俗は変わりましたが、68年に生じたことは、自らを明確にすることはできないでいます。ホモセクシャルを取り上げてみましょう。まだ、人々は寛容の段階にいます。ホモセクシャルが目に付くことは、フランスではごくまれです。

ML:私にとって、人の身の上に生じた最善のことは、せいぜい国家に対して姿を隠したことくらいである。

AT:国家がものごとを掌中にいれたということだけでなく、社会的な主体が消滅してしまいました。

L:どうしてそのように諦めているのですか?

AT: 政治的な主題はもはや存在しなくなり、ファシズム君主制や革命によって脅かされることもなくなった。労働者文化や反資本主義の主題に立ち戻る社会運動は消えてしまいました。突然、全ての人は、生じていることは支配の結果であると言うことに同意してしまいました。それ故、人々は、無責任になったのです。

ML: 私生活上での改革によって、人々は国家の側に正義があると考えるようになったと、私はずっと考えている。その時まで、誰も裁判官は、社会を組織するのに最もいい立場にいるとは考えなかった。つまり、70年代に社会的な別の規範が消え始め、人々は法律に向かって行った。

AT:繰り返しを恐れず言うと、労働運動・ソ連の終焉とアメリカの興隆とともに、フランスの社会的なシーンは空洞化したと私は信じています。その時、暴力が存在しました。そして、暴力が存在するので、秩序の名の下に、国家の介入があります。そして、人々は、保護されることを要求しました。

ML:保護されることだけではない。国家が直接に組織することなしに、同じ社会の中に様々な形態の生活が存在しうるという考えが完全になくなってしまった。その結果、国家はますます精神的な権威を手に入れている。目標となるものがなくなったと叫んでいると、国家は自らのものを押し付けてくることになるのだ。

L:L.フェリーは、68年5月を非難しますが、彼によれば、それは不毛な個人主義の第一の責任者であるということです。突然、無力となった個人は、支えとなる集団を失うならば、国家のほうを向くことになるでしょう。

AT:私の考えでは、個人主義は社会的なものの分解になる可能性がありますが、また別のものでもあります。例えば個人主義は、共同体主義にもなりうるのです。それは、諸個人が同じ意見を共有するという意味においてです。

ML: 国家は、もはや目標となるものがなくなったと不平をもらすが、国家がそのような目標を生み出す中間的な審級を全て破壊しているのだ。これらの審級によって、規律的・道徳的な規範や礼儀正しさといったものがうみだされていた。さらには、それらについての判定者でもあった。今日、法と道徳の間の混乱がますますひどくなっている。19世紀の小説家(おそらく最も興味深いのはバルザックであるが)は、30年台まで、法と道徳のこのような区別を絶えず俎上にあげた。法は、個人の外部にあるなにものかとして、そして恣意的な機構として登場した。社会はそれで我慢しなければならなかった。今日、法は、救済を施す審級としてたち現れている。

AT:実際、フランスの特色の一つは、国家が同時に法であるとともに道徳であることを望んだということです。公立学校は、道徳を教える学校です。様々な宣言や文書が示すところによれば、宗教は、世俗の宗教である進歩に取って代わられました。68年に生まれた考えは、個人の振る舞いを起点にすることで、道徳が存在しうるというものでしたが、それと同時に、ジュール・フェリー(1)による国家は、完全に抑圧的なものになってしまいました。国家が自由を与えようとするのは、カトリックの独占と戦うためです。68年以前までの道徳的な統制は、カトリック教会によって行われていました。それ故、国家はそれと戦う役割を持っていました。

ML:実際は、法と宗教の分離は、ずっと古いものだ。大革命以来、もはや結婚は宗教的なことが義務付けられず、宗教は両親と子供の関係において、根本的に重要なものでなくなった。宗教から法の解放は、大革命を起点に開始された。ピルや中絶の禁止でさえ、宗教的というよりは、出生率に関する政策に結びついていた。

L:習俗に関して、68年の遺産について語ることができると思いますか?この遺産は、肯定的なものでしょうか、それとも否定的なものでしょうか?

AT: 68年は、極端なほど新しい何かで、政治システムや文化システムでさえ受け入れる準備ができていませんでした。それは大歓迎されると同時に拒絶されました。今日それほど68年が口に上るのは、この出来事が意味を持ち始めたからです。ヨーロッパで1970-1975年にいわゆるリベラルの時代が開始されたことは、その枯渇の現れです。それ故、自問しなければならないのは、私たちの社会を存続させるには、何に基礎を置くことができるかということです。大きな企図なしに、生きていくことはできません。そのような企図は、ほころびて裂けたものを繕うことにあります。

ML:68年は、歴史の中で必要だったのか?次のように答えよう。68年に対する関心は、おそらくそれが、習俗の世界、家族・結婚・恥じらいの世界、すなわち暴力的であっても、同じようにポエジーを持っていた一つの世界の終焉であったという事実の中に存在する。

 あらゆる世界の終焉と同様に、また革命的な過程の例にもれず、思想や企図の中を、駆け巡った多くの可能性が存在した。しかし、最も興味を引く可能性は、埋もれてしまった。このような可能性は、個人的自由と私的な圏域での創造力や想像力に賭けられたのだ。勝利を収めたのは、脆弱な市民という仮定といった最もくだらない可能性だった。私生活に関して、この革命は全くしくじったと私は信じる。このように述べた上で、このような状況に対して介入することは可能である。この近代化(cette modernite)は、そのような姿を示したが、幸いにも、それは不可避のものではない。

AT:今日68年に対して、非常に肯定的な判断ができると私は信じています。なぜならそれは、将来を予感させるものであったからです。68年は、未来を先取りする運動、すなわち文化的な大きな変化を告知する運動でした。


■トレーヌは、この討論では、文化的な側面においてのみ5月革命を擁護している点が特徴的だと思います。第1回のコメントで引用したテキストでは、社会的な統治の新形式と文化の革新を結びつけた点に歴史的重要性を見ていましたが、ここでは、後者の観点のみから語られています。トレーヌのこのような見解の変化がいつごろ起ったか、わかりませんが。
■国家と教会の関係が語られていますが、興味がある人は、谷川稔『十字架と三色旗 もう一つのフランス近代』(山川出版)をお勧めします。

1 第三共和政期の政治家。初等教育無償法と初等教育の義務化・世俗化法を制定し共和国の礎を築く。一方で彼は、アフリカの植民地化を推し進める植民地主義者であった。

68年の思想―現代の反 人間主義への批判 (叢書・ウニベルシタス)

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