68年をめぐる対論② アラン・トゥレーヌとマルセル・ラカブ(1)

今回の討論はリベラシオンからです。

1968:la jeunesse s’empare de la vie privee. 2008:la victimisation fait la loi 
「1968年若者は私生活をわがものした、2008年犠牲者であるということが幅をきかす」

Liberation紙 2008年3月29日

AT: アラン・トゥレーヌ 
ML マルセル・ラカブ

L:アラン・トゥレーヌさん、68年には何歳で、何をして、何処にいましたか?

AT: 68年、私は43歳でした。私は教授で、ナンテールで社会学部の部長をしていました。ナンテールが設立されたのは1965年で、その目的はソルボンヌに対する新しい大学を作ることでした。私は、翌年に同じ心意気で、赴任して、3年だけそこにいました。なぜなら、急速にナンテールは、完全に変質してしまったからです。だから、私は3年間をナンテールの社会学教授として過ごしたことになります。それは非常に特権的な地位で、というのも私は、起きつつあることを推し量ることができたからです。1967年に最初のストが起りました。このストは、後の経過との一貫性においては、くだらない盛り上がりを欠いた出来事かもしれません。しかしこれによって、私は運動に対する準備ができました。1968年2月、私はその上、ル・モンドに2本の論文を発表し、ナンテールで何事かが生じていると述べました。私の友達は、疑っていましたが。

L:この動揺の性質は、どのようなものでしたか?

AT:ナンテールは辺鄙な場所で、C棟(哲学・社会学)に行くには、水溜りに投げ込まれた容器を飛び越えなければいけませんでした。このような酷い環境が好ましい影響を及ぼしていました。というのも教官と学生は、朝から晩まで、一緒に生活していたからです。いつも、私は、コーン‐バンディと一緒に朝食をとっていました。私は彼とは仲良くしていて、彼はパリで私の授業を取っていました。ナンテールには、寄宿生のための「学生寮」がありました。全てのことの引き金となったのは、若者の生活の問題であり、彼らの自由、とりわけ性に関する自由でした。

L:ナンテールで議論されていたのは、生活習慣の問題だったのですか?

AT: トロッキストや毛沢東主義者の「小グループ」がソルボンヌでは幅を利かせていました。一方ナンテールでは、3月22日運動によって支配されていました。彼らは、アナーキストであり、個人的にはコーン‐バンディにあっては、反共色が濃厚でした。ナンテールでは、文化的なテーマがはっきりしていました。例えば、ナンテールは3月22日に占拠されて、いくつかの戸や窓が壊されました。大学の機構は、若者を裁くために、懲罰委員会をつくりました。弁護士は禁止されたが、彼らは教授を選ぶ権利がありました。私たちは、特にわたしとP.リクール、3−4人で話し合いを持ちました。私は、個人的にコーン‐バンディとその年少の仲間の弁護をしなければなりませんでした。学長は、「破壊者」を尋問しました。「5月22日、あなたは学部にいましたか?」「いや、学部にはいなかった」とコーン‐バンディは答えた。「どこにいたのですか?」「家にいたよ」「それでは、午後三時に自宅で何をしていましたか?」「愛し合っていた。学長先生には、そんなこと経験したことなかったでしょうがね。」こんな調子でした。

L:マレセル・ラカブさん、自己紹介お願いします。

ML: 私は、フランスに1989年にやって来た。そして1968年5月のころは、ちょうど4歳で、アルゼンチンで生活していた。ラテンアメリカもヨーロッパで起っていたのに近い運動を経験した。しかし、ラテンアメリカでは、68年にここで論じられたのと同じ問題を掲げてデモをした若者たちの運命は、悲劇的なものだった。実際、若者のこのような反乱が終焉したのは、ラテンアメリカのクーデターと時を同じくし、軍事独裁政権は、主張されていたような蜂起の危険が存在しない一方で、若者たちを弾圧の血の海に沈めた。それは、アメリカから南アメリカに持ち込まれたマッカーシーズムだった。軍事独裁の間は、若者であることは、危険なこととなった。13歳の子供の死体の山が見つけられたが、それは子供たちが通学のためのバス料金の値下げのためのデモを組織していたからだった。そういうわけで、私は、暴力を伴わず、社会に対して大きな影響を及ぼしたフランスの反乱をすばらしいと思う。

L:暴力は、(自己)表現であり、パロールからの解放でした。

M.L:それは、暴力ではなく、自由だ。

A.T: 際限のない自由です。68年とは、文化や私生活の政治領域への侵入でした。学生たちは労働者的な言葉を使いましたが、現実の労働者階級とは現実的な接触を全く欠いていました。全く異なる二つの世界なのです。彼らが、政治や社会について語っても、それは、根本的に政治的でない、また根本的に社会的でない運動なのです。

M.L:しかし、わたしが信じるところでは、68年5月の主人公たちは、意識することなしに、すでに準備されていた習慣の次元での変化を要求したのだ。当時、制度としての家族や結婚のモデルは本当の危機に瀕していた。そしてそのことを、公的な政策は気づいていた。このモデルは取り替えられる必要があった。性の解放とは、婚姻制度の外に組織されていたはずの性の関係(sexualite)に与えられた名前だった。

A.T: ともかく、学生たちは、大きな断絶の感情と刷新の感情を抱いていました。突然、前人未踏の世界に踏み込んだのです。公のものに対して場を提供していた一連の出来事から、フランスは抜け出しました。つまり戦争、そして復興、さらには植民地戦争などなから抜け出たのです。ひとびとが夢中になったのは、経済で、工場が再建されました。しかし、住宅はそうでありませんでした。住宅の建設の必要性がわかるのに8年ほどかかりました。アルジェリア戦争は、1962年に終わりました。ポンピドゥーの首相在任期間(1962-8年)は、特に若者に対して理解を示したものではありませんでした。その時代(1965-7年)になると、経済的な生活では全てが再び軌道にのりましたが、私生活においては全くそうではなかったのです。68年の本質は、まず第一に若者という概念を登場させたことです。若者とは、私生活との関係によって定義されるものです。

M.L:若者だけが、私生活を持っているのではない。

A.T: 私が、若者と言う時、社会的・政治的カテゴリーが問題になっているのではありません。そのうえ、若者という概念は、議論を引き起こしてきました。例えば、ブルデューにとっては、若者は存在しません。ブルジョアの若者は、若いブルジョアなのです。私は、このような考え方を採りません。問題となっているのは、まず自身を学生としてではなく、若者として表現するということだったのです。これは新しいことでした。というのもフランスは、私生活の表現の観点においては、遅れていたからです。

M.L:それは事実ではない。なぜならフランスは、この社会的・政治的領域では長い間、前衛的役割を果たした国だったからだ。1789年の革命の後、フランスは、男色・動物性愛・近親相姦といった異端と結びついた犯罪を廃止した西洋で最初の国だった。イギリスでは、1860年ホモセクシュアルを絞首刑にし、同時代にスイスでは、同棲は禁じられていた。

A.T:そうかもしれませんが、イギリスでは、女性は第一次世界大戦後、選挙権を得ましたが、フランスの女性が手にするのは1945年のことです。確かに、フランスの女性は、文化的な生活における非常に重要な位置を占めてきました。

M.L:実際イギリス人とアメリカ人は、より早い時期に、政治的権利を手に収めたが、習俗の点では、20世紀初頭までは、フランスは模範的な国だった。  (続く)

■アラン・トレーヌは、日本でも著書が翻訳されている著名な社会学者。1925年生まれで、元パリ大学高等研究院の社会運動研究センター所長、雑誌「労働社会学」の創刊者のうちの一人。

■彼の政治的立場は、社会党であり、五月革命当時はPSU(統一社会党)に属す。PSUは、急進社会党共産党などからの離脱者や除名者で結成され、5月革命時には新左翼運動と結びつくことになる。彼は、以前の著書で5月革命に次のように述べている。
 「その歴史的重要性は、社会紛争(→闘争)であるとともに、文化的自由化(→解放)であること、創造的ユートピアの中に、過去の枯れ枝の剪定と社会統治の新形式への反対(→対抗的な)活動を結びつけたことでした。」 (『端境期の思索』P.104)

端境期の思索―或る女子学生への手紙 (1977年)

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青春という亡霊―近代文学の中の青年 (NHKブックス)

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