100歳に近づき、LSDの生みの親は、自らの「問題児」について考える

 今年の4月29日、スイスのバーゼルで、102歳の化学者が天寿を全うし亡くなりました。サルコジのような保守派が「道徳的堕落」として指弾するカウンター・カルチャー・ムーブメントと浅からぬ因縁を持つこの老人を取材した記事をNew York Timesから紹介します。

N.Y Times Jan7.2006

「100歳に近づき、LSDの生みの親は、自らの「問題児」について考える」 By Craig S.Smith

 LSD の生みの親、アルバート・ホフマンは、スイスのアルプスの芝に覆われた丘の上の近代的な自宅の小さな隅のオフィスを端から端へゆっくり歩いた。彼は、訪問者に晴れた日には前方に広がる眺めを見せようとしていた。しかし、ちょうど丘の尾根の上には、白い霧の広がりだけが垂れ込めていた。代わりに、彼は机の上のその風景の写真を取り上げた。その写真は、おそらく訪問者に窓枠の向こうの風景について納得させるために、置かれていたのだろう。

 ホフマン氏は、水曜日に100歳になる。その100歳の区切りは、近隣のバーゼルでのシンポジウムによって祝われることになっている。そのシンポの主題となるのは、彼が発見し、周知のように、ブレークの認識のドア1(Blakean doors of perception)を開け、世界中で、意識に変化を引き起こした化学物質である。齢を重ねるに従って、彼は対話するごとに、執拗に一つの主題に執着した。その主題とは、人間と自然の一体性とその事実に対してますます注意が向けられなくなっていることの危険性である。

 「生きている自然との接触を失うことは非常に危険だ」と、緑のアームチェアに座った彼は、右に体を傾けながら言った。そのアームチェアからは、霜まじりの野原と雪に彩られた木々を見渡せる。彼の前のコーヒーテーブルには、ガラス製の水差しに、バラの花束がさしてあった。「大都市には、生きた自然を見たことがない人が多く住んでいるし、全てのものは人工のものだ」と彼は述べた。「都市が大きくなればなるほど、人々は自然を見なくなり、理解できなくなる。」さらに次のように述べた。「そしてまさにLSD(彼は「問題児」と呼ぶ)こそが、人々と宇宙を結びつけるのに役に立つのだ。」

 ほぼ百歳になり、ホフマン氏の体は衰えを示すが、頭脳は明晰だ。彼の話は脱線しがちで、少年時代の記憶をうれしそうにゆっくりと辿るのだが、彼の澄み切った目が輝いたのは、スイスのバーデンの北にある丘で90年以上に森の道での経験の記憶を語った時だった。その経験によって、彼は自らが「奇跡的で、力強く、計り知れない現実」と呼ぶものをもう一度垣間見たいと思うようになった。

「私は、自然の美に完全に驚愕した」と少し節くれだった指を鼻に当て、彼は言った。彼の長い白髪は、こめかみと頭頂部から後ろに撫で付けられていた。彼によれば、神秘主義者でない科学者はだれも、本当の科学者ではない。「外部にあるのは、純粋なエネルギーと無色の物質である」と彼は述べた。「それ以外の全ては、われわれの感覚のメカニズムを通して生じるのである。われわれの眼が見るのは、世界にある光のほんの少しの部分に過ぎない。色のついた世界を作り出すというのは、トリックなのだ。なぜなら色のついた世界は、人間の外部には存在しないからだ。」

 特に彼が惹かれたのは、植物が太陽光線を自らの体の構成部分に変えるメカニズムであった。「全てのものは、太陽が植物界を経由することで存在するのだ」と彼は述べた。

 ホフマン氏は、科学を研究し、スイスの製薬会社サンドズ研究所に就職した。というのも同社が、医学的に重要な反応性がある化合物の特定・合成のためのプログラムを開始していたからだ。彼がすぐに取り掛かったテーマは、ライ麦の中で成長する毒性の麦角菌だった。助産婦は、出産を早めるために、何世紀にもわたってその菌を利用してきたが、科学者は、薬理学的な効果を生みだすその物質を取り出すことに成功してはいなかった。ついにアメリカの科学者が、その反応性のある化合物がリセルグ酸(lysergic acid)であることをつきとめた。それを受けて、ホフマン氏が着手したのは、薬理学的に有効な化合物を求めて、その不安定な科学物質と別の分子を結合させることだった。

 麦角に関する彼の研究は、いくつかの重要な薬を生み出したが、その代表的なものには、産後の出血多量を防ぐために今でも使用されている化合物がある。しかし、彼が合成したLSD(lysergic acid diethylamide)こそが、最も大きな衝撃を持つことになった。1938年に最初に彼がそれをつくりだした時は、全く有意な薬学的な結果はでなかった。しかし、彼は麦角の研究を完成させたとき、LSD−25の研究に立ち返ることを決心した。というのも、実験を改善すれば、自らが望んでいたような身体の循環器系に対する刺激効果を測定できると考えたからだ。1943年の4月の金曜日の午後、その薬を合成している時に、彼は、あの有名となった、意識の状態の変化をはじめて経験したのだ。「すぐに、私が子供時代経験したのと同じものだとわかった。原因が何か分からなかったが、重要であることは分かった」と彼は述べた。

 次の月曜日に研究所に戻った時、彼は自分の経験の原因をつきとめようとした。彼は、最初は、ずっと使ってきたクロロフォルムのような溶媒の煙によるものだと考えた。しかし、その煙を吸っても何の効果もなかった。彼が悟ったのは、微量のLSDを吸引したに違いないということだ。「LSDが、私に話しかけた」とホフマン氏は、楽しげに、生き生きした笑いを浮かべて述べた。「そして彼が私のもとに来て言った。『お前が、私を発見しなければならない。私を薬理学者に渡してはいけない、何も発見しないから。』」

 彼は、その薬で実験を行い、ごく微量を摂取した。その量では、当時知られている最も毒性の高いものであっても、ほとんどあるいは全く影響のないくらいであった。しかしLSDの結果は、強力な経験であった。その時、彼は自転車で家路についたが、助手に付き添われた。後に、その日の4月19日は、LSDの熱狂者には、「自転車の日(bicycle day)」として記憶されることになった。

 ホフマン氏は、サンドズ研究所の実験に参加したが、その経験は恐ろしいものと思い、LSD は、注意深く管理した状態でのみ、使用されるべきだと考えた。1951年、彼は、ドイツの小説家のエルンスト・ユンガー(この時点で、彼はメスカリンの実験をすでに行っていた)に手紙を書いて、一緒にLSDを摂取することを提案した。彼らは、ホフマンの自宅で、バラとモーツアルトの音楽と焼香の中、 0.005ミリグラムの純粋なLSDを摂取した。「それが最初のサイケの実験計画だった」とホフマンは述べた。

 彼によれば、彼は、その後何十回とLSDを摂取し、一度「ホラートリップ」と自ら名づけるものを経験した。それは、彼が疲れていて、ユンガーがアンフェタミンをはじめてくれた時のことだった。しかし、幻覚に溺れていた日々は、もう昔のことである。

 「私は、LSDをよく知っている。もはや必要はない」とホフマン氏は述べた。「たぶん必要なのは、A.ハクスリーのように死ぬときかもしれないがね。」A.ハクスリーは、死因となった咽頭癌の臨終の苦しみを乗り切るために、LSDの注射を妻に依頼したのであった。

 しかし、ホフマン氏はLSDを「魂のための薬」と呼び、地下に追いやる、世界規模での禁止には、失望している。「心理分析において、LSDは、10年間うまく利用されていた」と彼は述べた。続けて、LSDが1960年代の若者の運動によってハイジャックされてしまい、運動が反対していた体制側によって悪魔扱いされた。彼は、LSDは危険なものになる可能性があると述べ、T.Learyらによる配布を「犯罪」と呼んだ。

 「LSDは、モルフィネと同じ資格の管理統制された薬物にするべきだ」と彼は述べた。

ホフマン氏は、38年前に建てた家に妻と一緒に住む。彼は、4人の子供を育てたが、そのうちの一人がアルコール中毒で苦しみ53歳で死ぬのを見届けた。彼には、5人の孫と、6人のひ孫がいる。彼の知っている限りでは、彼の妻を除いては家族では誰も、LSDを試したことはない。

 ホフマン氏は、少し前かがみ気味で、身長はほぼ5フィートくらいだが、立ち上がって、腕で支える杖を持って、家を歩いて出た。LSDは死に対する理解を深めたかと尋ねられると、彼は少し驚いて、いやと答えた。「私は、もともと居た場所に、つまり生まれる前にいた場所に戻るのだ。ただそれだけのことだ」と彼は述べた。


■この記事には後に訂正が附される。Timothy Learyについての部分が、翻訳の問題から誤りであり、次のように訂正された。「ホフマン氏によれば、Learyがサイケ薬を広めたことには同意できないが、Leary達のLSDの配布を『犯罪』と呼んではいないということだ。」