68年をめぐる対論(前半)

フランスの「五月革命」40周年まであとわずかですが、今回もこの「五月革命」に関する「対論」をご紹介します。

「68年5月 対論 学生についての論争」
Humanité誌 4月5日付

Pierre Zarka : 以下PZ プロフィールは、先の「この出来事は、自由への道を開いた」を参照
Daniel Bensaid: 以下DB フランスのマルクス主義哲学者。第四インター系の理論家として、機関紙誌を超えて、アカデミズム・メディアで論陣をはる。

H:どのような心持で、若い活動家だったあなた達は、68年に取り組みましたか?

DB: 1968年1月の終わりに、グルノーブル五輪開催中に、ベトナム国際連帯会議の際、ベルリンで大規模なデモを組織した。それは、68年の精神を準備するようなものだった。この流れでまた、パリでアメリカン・エクスプレスに対するデモが起こったが、そこで、JCRの活動家のクザヴィエ・ラングラドが逮捕された。逸話では、3月22日の朝、構内の壁ではなく、学部会館に「ラングランドを解放せよ!」とペンキで書くことが決定された。当時では、こんな違反的な態度を示すことだけで、ナンテールの大きなうねりが引き起こされたのだ。

PZ:本質的に、68年とは世代の問題である。われわれが幼年期を過ごしたのは、解放運動と植民地帝国の瓦解という状況の中である。われわれの両親は、とりわけナチスに対してであるが、勝利者の世代に属していた。科学や科学技術の発展によって、われわれは、高いところに引き寄せられていき後戻りはしないという積極的な感情が与えられた。最後にプラハの春であるが、スターリン主義に対する批判にもかかわらず、資本主義とは別のやり方で、社会を構想できるという気分が存在した。しかし、私はダニエルのような気分ではなかった。例えば、その当時、ナンテールでは、学生は、大学の学生寮の男女混合の禁止に対して反対して闘っていた。UFCでは、そのことで乱痴気騒ぎしていたが、真剣なものではなく、政治的なものでもなかった。時間の経過とともに、このことは、自律、自由、自分のことは自分で決めるという願望になって現れていたが、われわれはこのことを理解できないでいた。加えて、われわれは、共産主義者のグループの、制度的な生活の中に溶け込むという、心に深く根ざした願望 (desir tres profond de la famille communiste de s’integrer dans la vie instittutionelle )を引き継いだ。それゆえ、われわれは、無前提に、暴力や挑発に関わるように見えたものに敵意を持っていた。とりわけ、それが自分たちにはどうしようもない運動に由来する場合にはそうだった。

DB:わたしが、トゥルーズのMJC(青年文化会館)の反対運動に参加したのは、われわれは当時珍しい共学のリセの一つにいたのに、男性活動家と女性活動家が一緒になることを党が拒否したことと関係する。後に、トロッキーの『裏切られた革命』を読んだが、家族の次元でのある種の思想が「家庭におけるテルミドール」の章で扱われていた。また私が影響を受けたのは、B.フランケルの手になる、マスペロ社の Partisan誌だった。彼は、スポーツや性に対する批判を始めたが、それはW.ライヒの『若者の性についての闘争』の海賊版を出版することによってだった。1966-7年には、内密にその著作は広められた。どちらかというとわれわれは、このような雰囲気の中にいたのだ!暴力の問題について言えば、べトナムのテト攻勢プラハの春、メキシコやパキスタンの運動など、国際的に暴力が吹き荒れていた。それに先立って、上海コミューンの転換やチェ・ゲバラの死があった。しかしながら、これらのことによって、暴力は解放的でありうるという考えが与えられた。「権力は、銃から生まれる」と考えられた。

H:現在、ある人々は、68年5月を個人主義の到来の時と考えています。その当時、人々は解放を口にしていました。境界線はどこに存在するのでしょうか?

DB: 当時においては、個人的自由への希求は、連帯や集団的な行動と全く矛盾するものではなかった。人格を肯定できることが、進歩であった。マルクスは進歩の思想を持っていた。つまり、諸個人の欲求をそれぞれはっきりさせることで、人類はよりユニークなものになり、多くの個性から作られるようになると考えたのだ。「私」と述べることが、重要なのだ。問題は、集団的なものが後退し、「私」の暴走が存在する時である。現在、賃金や労働時間や保険の個人化と合致し、個人間の競争の導入と一貫するような個人についての言説が存在する。私の考えでは、正義・平等・連帯を求める組合や政治の実践での「私」と「われわれ」の分離は、68年5月に由来するものではない。反対にそれは、68年からの後退である。そこでは、各人の解放は、全員の解放の条件であり、逆もしかりであると考えられた。解放は、個人的な喜びであってはならない。

PZ:私自身も、個人主義の神話には反対の立場にある。今日、労働の組織の中や日常生活で、非社会化しようとする試みは確かに存在する。しかし、わたしは、拙速に「私」を個人主義に解消しようとは思わない。「私」が存在してから、地球に対する普遍的な関心がもたれるようになり、地球規模で考えるようになったのだ。たとえ、資本主義もまたそのことに関与していても、そうなのだ。確かに、非社会化することで、個人を殻に閉じ込めようとする意思は存在するが、私は、今のところは、それが出現しているものとは思わない。私は、今のところは、どちらかというと、「私」については肯定的な考えを持っている。68年は何か新しいものに直面したのである。それは、AGの実践であった。それは、非常に集団的な様相を呈していたが、同時に個人の自己主張を可能にするものだった。しかし、奇妙なことに、この新しいものに直面することで、過去に由来する一つの形が現れるのを目にしたのである。それこそが、「カリスマ的指導者」のコーン・バンディであり、彼は全員の名において語ったのだ。

DB: コーン・バンディは、今日よく知られている現象を利用することを知り尽くしていた。つまり、彼が熟知していたのは、個人を代表者に仕立て上げるメディアの役割だった。

H:このような自由への希求は、自主管理の登場と手を携えていたのではないですか?例えば、それは、少し後の1973年リップで実験されました。政治的な実践のうえで、自主管理の思想はどのような役割を果たしましたか?

PZ:リップの労働者が実際に経験したのは、68年5月に登場したこの自主管理の思想であった。自主管理が自らに投げかけたのは、企業だけでなく社会に対する別のビジョンであった。

DB: 私の考えでは、自主管理という考えは、68年5月に生まれたものでは全くない。このテーマは、すでに、S.マレやA.ゴルツにあっては、ユーゴなどの経験について議論されていた。この思想は、68年によって増長されたが、それは、自主的な組織という現象に最大限賭けてみようとする願望を伴っていた。それは、言葉の上の問題だけではなく、賭けられたのは、団結と民主主義だった。周知のように、フランスでの組合の状況は、大きく分裂し、闘いの中で構成員の全体によって選ばれた集団を持つことは、例えば、共通の代表を持つことで、団結を強化する一つの方法である。それは、民主主義の一つの形態であり、団結の中で説明責任を果たすということである。

PZ:68年に生まれたのは、ある種の自律へのこのような要求であった。しかし、それは組織された力を無視しているわけでない。そして、おそらくその要求を共産党にみいだすことはできないだろう。『ユダヤ人問題』などでは、マルクスは国家と市民社会の分離を示唆し、それが自己自身に対する個人の疎外や分裂として示した。レーニン主義的な土壌で、われわれは、この考えを理解できなかった。そのことで、一般的には、自然発生的な運動よりも、執行部の制度的性格(caractere institutionelle des appareils)のほうが好意的に受け止められたのだ。そこから生じたのは、集合的なものや「組織化されて」いないものに対する侮蔑である。ところで、先進産業資本主義国、とりわけある水準の文化が存在するところでは、組織化された勢力の付け加えに過ぎない大衆の運動を想像することは全く不可能である。わかってほしいのですが、私は政治的及び組合的な集団的組織を自然発生性に解消しようとすることに同意しているのではないということだ。そんなことは信じていない。しかし、集団的な組織という概念は、最終的には常に国家や教会の組織を少し模したものであり、それぞれ一方には、エリートと「学者」、そして他方に市民社会あるいは迷える羊が存在する。このことは、民主的な結合についての真の問題を投げかける。このことは、われわれを委任的な民主主義という概念の検討に向かわせる。人々は、いつも欠席して、より強いものに身を委ねる。社会党に投票する人をたくさん知っているが、そのうち誰一人としてその党を愛していない。

DB:官僚化は、社会の至る所にある。行政、組合、NGOそしてもちろん政党にも存在する。これらの組織は、個性を疎外するもの、そして組み込まれる危険があるものとして見なされる。しかし、それらの組織は、メディアや金に対して、またわれわれの言葉を奪うものに対してより強力な抵抗の道具でもある。集団的な組織は、民主的な討論の空間を創設しようとする。そのような組織の存在は、私にはますます重要に思える。というのも、ロワイヤルやサルコジがいつも「私」についてばかり口にするのは、偶然ではないからである。人々は、聖体拝礼を行っているのだ。つまり、カリスマ的な個人と世論が、融解してしまっている。そのことで、政党による媒介が抑圧されるとともに、あらゆる将来の見通しについての議論やあらゆる理性的な討議も抑圧される。確かに、権利を仲介するものは、政党ではなく、評議会・自主管理委員会・人民議会である。しかし、そこに提案を行う政党が複数存在することは、民主的な生活の条件である。(続く)


■幅広く5月革命をめぐる議論を見るため、今回はHumaiteの論争を訳してみました。
今回も、文意が取れないところや訳語不自然な箇所が多々あると思います。特に原語を示したところが苦しいです。組織や運動体の訳語の確認が十分できていないので、頭文字だけで示したり、強引に訳しました。

■ダニエル・ベンサイドの著作の一部は、日本語でも読めます。彼の論文が所収された『フランス社会運動の再生』(2001年、つげ書房新社)が手に入れやすいでしょう。そこでの5月革命についての小論は次のように結ばれています。
 「ユートピアの芽生えは低い次元から再び始まる。今日、不可能になっていることを要求すること、それは雇用の権利のために、住宅の権利のために、市民権のために、一歩、一歩闘うことである。これはおそらく『権力への想像力』や『ただちに(社会主義を)』に比べるならばそれほど叙情的ではないだろう。これはそれでも反逆的なのだ。巨人もまた最初は小さい子供だったから。」(171頁)