「明らかにされたもう一人のフーコー」前半

one-plus-one2008-05-14

前回に続きフィガロの記事を紹介させていただきます。
今回は時間の都合上、半分のみの紹介となります。

さて、前回同様、フランス語修行中のピエールによる訳です。
今回は、どうやら苦戦を強いられているようです。英語などと違いその独特の言い回しがあるようです。
ですので、誤訳や誤解などもあるかと思いますし、原文をそのまま掲載する可能性もあります。
もしご覧になっている方でフランス語にお詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひご指導よろしくお願いします。

Un autre Michel Foucault dévoilé

下記URLに元記事が掲載されています。


「明らかにされたもう一人のフーコー

七十年代に左翼にもてはやされたその哲学者は、実際は、マルクスよりもアウグスティヌスを読むのを好む懐疑主義者であった、と偶像破壊的な論文で友人のポール・ヴェーヌは断言する。

英雄たち:アルチュセール、バルト、フーコーラカンドゥルーズデリダ
戦場:コレージュ・ド・フランス、ソルボンヌ、ウルム街の高等師範学校ヴァンセンヌ、ナンテール
旗印:反−人間主義理論、構造主義精神分析マルクス主義、反−精神医学、「68年の思想」

確かに、サン・タンヌ病院でアルチュセールは、かつての師であるジャン・ギトンとともにアヴィラの聖テレーズを再読し、よきカトリックモラリストであるラカンは、68年世代の熱狂を冷笑し、バルトは反近代の古典主義を仕上げた。しかし、その他のものたちにとって、「人文科学」は、形而上学とその理論的虚構が人類の幼少期に属するものに格下げされた後、君主として君臨した。ミッシェル・フーコーは、象徴的な使者のように思えたが、彼の親友であり、コレージュ・ド・フランスの同僚であるポ−ル・ヴェーヌが彼にささげた論文が描く彼はそうではない。その論文は、巧みにできた、偶像破壊的なものである。
考古学者で古代ローマの専門家であるヴェーヌは、前々作の『われわれの世界がキリスト教となったとき』で、広範な読者を魅了したが、彼の教示によって、フーコー古代ギリシャ・ローマに当てられた『性の歴史』の2・3巻は精緻化されることになった。

ミッシェル・フーコーは、1926年にポワチエで生まれた。20年後に高等師範学校に入り、1951年に哲学の教授資格を取得した。彼は心理学に深く関心を持ち、ドゥレ教授のもとサン・タンヌに勤務した。処女作である『狂気と非理性――古典主義時代における狂気の歴史』を歴史家のP.アリエスが監修した叢書としてプロン社から出版した。ニーチェバタイユブランショアルトークロソウスキー、レイモン・ルセール(1963年に試論を上梓することになる)だけでなく、ヌーボーロマンやテル・ケル誌の作家を丹念に読み、彼は1966年に『言葉と物』を発表し、4年後にコレージュ・ド・フランスの「思想体系の歴史」講座の担当に指名される。68年5月の熱気が冷めやらぬ中で、フーコーは、ジャン・マリー・ドムナックとピエール・ヴィダル−ナゲとともに、刑務所情報集団(GIS)を設立した。彼の行動と思想が向かったのは、社会的・政治的・性的マージナルな存在、および社会によって設置される管理と監視の諸手段の研究である。1975年には『監獄の誕生』そして1976年には『知への意志』が発表された。後者は、全6巻となる予定の『性の歴史』の導入部にあたるものであったが、『快楽の活用』と『自己への配慮』を出版し、3巻のみに終わった。ミッシェル・フーコー1984年にAIDSでなくなった。

通説とは逆に、ポール・ヴェーヌは説明する。「フーコーは、構造主義の思想家では決してない。そればかりか、もはやある種の『68年の思想』にも属してはいない。彼は相対主義者や歴史主義者でもなかったし、いたるところにイデオロギーをかぎつけていたわけではない。」反対に、この「いわゆる68年の思想家」、「伝説の68年の体現者」は、「懐疑的な思想家」であり、「改良主義者」であり、「経験論者」であった。「彼は、マルクスも、フロイトも、革命も、毛も信じていなかった。個人的には、彼は進歩主義者の良心をせせら笑っていた。」もし中心人物の行為や考えの大部分が、イデオロギー的な外皮を剥ぐと、伝統の中に書き込まれいるとするならば、68年の5月の知的な革命のうち何が残るというのだろうか。(続く)

サムライたち

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知への意志 (性の歴史)

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