68年をめぐる対論② アラン・トゥレーヌとマルセル・ラカブ(3)

「1968年若者は私生活をわがものとした、2008年犠牲者であるということが幅をきかす」

L:反抗の原動力になった、性的な関係(sexualite)は、それ故、国家に対して保護のための抑圧的な法を要求する女性に道を開いたということですね。

ML:それは、今日全ての人々に当てはまる。今後は、全ての主体は、脆弱なものと見なされた。そして、現在の刑法のあらゆるデマは、犠牲についてのデマである。

AT: 実際、われわれが目撃したのは、フェミニズムが非‐フェミニズムに変質したことです。非‐フェミニズムとは、犠牲となった女性を告発することです。女性は、世紀の初めからそうであったような、能動的な行為者ではもはやなくなりました。今日、人々は行動を信じていません。行動を信じるということは、君主に対する政治的行動や、とりわけ労働者の運動を信じるということです。70年代から、労働者の運動は消えてしまいました。その時以来、目に見えるような運動が存在しない中、否定的な定義が、知的な生活を支配するようになりました。そのような極端な例が、ブルデューです。彼は、「私は、人を定義するのは、人が被っているものによってである」と述べます。しかし、抵抗することができないと考えられるのは、この人が、操作されたシステムあるいはイデオロギー的な正当化によるシステムにがんじがらめになっているからです。68年はそれとは全く別です。そして、この反抗の後、実際目撃されたのは、ある種の後退であり、それは国家の側にだけ生じたのではなく、とりわけフランス社会全体に存在しています。最終的には、68年の思想は根付くことはなかったと言えます。確かに、習俗は変わりましたが、68年に生じたことは、自らを明確にすることはできないでいます。ホモセクシャルを取り上げてみましょう。まだ、人々は寛容の段階にいます。ホモセクシャルが目に付くことは、フランスではごくまれです。

ML:私にとって、人の身の上に生じた最善のことは、せいぜい国家に対して姿を隠したことくらいである。

AT:国家がものごとを掌中にいれたということだけでなく、社会的な主体が消滅してしまいました。

L:どうしてそのように諦めているのですか?

AT: 政治的な主題はもはや存在しなくなり、ファシズム君主制や革命によって脅かされることもなくなった。労働者文化や反資本主義の主題に立ち戻る社会運動は消えてしまいました。突然、全ての人は、生じていることは支配の結果であると言うことに同意してしまいました。それ故、人々は、無責任になったのです。

ML: 私生活上での改革によって、人々は国家の側に正義があると考えるようになったと、私はずっと考えている。その時まで、誰も裁判官は、社会を組織するのに最もいい立場にいるとは考えなかった。つまり、70年代に社会的な別の規範が消え始め、人々は法律に向かって行った。

AT:繰り返しを恐れず言うと、労働運動・ソ連の終焉とアメリカの興隆とともに、フランスの社会的なシーンは空洞化したと私は信じています。その時、暴力が存在しました。そして、暴力が存在するので、秩序の名の下に、国家の介入があります。そして、人々は、保護されることを要求しました。

ML:保護されることだけではない。国家が直接に組織することなしに、同じ社会の中に様々な形態の生活が存在しうるという考えが完全になくなってしまった。その結果、国家はますます精神的な権威を手に入れている。目標となるものがなくなったと叫んでいると、国家は自らのものを押し付けてくることになるのだ。

L:L.フェリーは、68年5月を非難しますが、彼によれば、それは不毛な個人主義の第一の責任者であるということです。突然、無力となった個人は、支えとなる集団を失うならば、国家のほうを向くことになるでしょう。

AT:私の考えでは、個人主義は社会的なものの分解になる可能性がありますが、また別のものでもあります。例えば個人主義は、共同体主義にもなりうるのです。それは、諸個人が同じ意見を共有するという意味においてです。

ML: 国家は、もはや目標となるものがなくなったと不平をもらすが、国家がそのような目標を生み出す中間的な審級を全て破壊しているのだ。これらの審級によって、規律的・道徳的な規範や礼儀正しさといったものがうみだされていた。さらには、それらについての判定者でもあった。今日、法と道徳の間の混乱がますますひどくなっている。19世紀の小説家(おそらく最も興味深いのはバルザックであるが)は、30年台まで、法と道徳のこのような区別を絶えず俎上にあげた。法は、個人の外部にあるなにものかとして、そして恣意的な機構として登場した。社会はそれで我慢しなければならなかった。今日、法は、救済を施す審級としてたち現れている。

AT:実際、フランスの特色の一つは、国家が同時に法であるとともに道徳であることを望んだということです。公立学校は、道徳を教える学校です。様々な宣言や文書が示すところによれば、宗教は、世俗の宗教である進歩に取って代わられました。68年に生まれた考えは、個人の振る舞いを起点にすることで、道徳が存在しうるというものでしたが、それと同時に、ジュール・フェリー(1)による国家は、完全に抑圧的なものになってしまいました。国家が自由を与えようとするのは、カトリックの独占と戦うためです。68年以前までの道徳的な統制は、カトリック教会によって行われていました。それ故、国家はそれと戦う役割を持っていました。

ML:実際は、法と宗教の分離は、ずっと古いものだ。大革命以来、もはや結婚は宗教的なことが義務付けられず、宗教は両親と子供の関係において、根本的に重要なものでなくなった。宗教から法の解放は、大革命を起点に開始された。ピルや中絶の禁止でさえ、宗教的というよりは、出生率に関する政策に結びついていた。

L:習俗に関して、68年の遺産について語ることができると思いますか?この遺産は、肯定的なものでしょうか、それとも否定的なものでしょうか?

AT: 68年は、極端なほど新しい何かで、政治システムや文化システムでさえ受け入れる準備ができていませんでした。それは大歓迎されると同時に拒絶されました。今日それほど68年が口に上るのは、この出来事が意味を持ち始めたからです。ヨーロッパで1970-1975年にいわゆるリベラルの時代が開始されたことは、その枯渇の現れです。それ故、自問しなければならないのは、私たちの社会を存続させるには、何に基礎を置くことができるかということです。大きな企図なしに、生きていくことはできません。そのような企図は、ほころびて裂けたものを繕うことにあります。

ML:68年は、歴史の中で必要だったのか?次のように答えよう。68年に対する関心は、おそらくそれが、習俗の世界、家族・結婚・恥じらいの世界、すなわち暴力的であっても、同じようにポエジーを持っていた一つの世界の終焉であったという事実の中に存在する。

 あらゆる世界の終焉と同様に、また革命的な過程の例にもれず、思想や企図の中を、駆け巡った多くの可能性が存在した。しかし、最も興味を引く可能性は、埋もれてしまった。このような可能性は、個人的自由と私的な圏域での創造力や想像力に賭けられたのだ。勝利を収めたのは、脆弱な市民という仮定といった最もくだらない可能性だった。私生活に関して、この革命は全くしくじったと私は信じる。このように述べた上で、このような状況に対して介入することは可能である。この近代化(cette modernite)は、そのような姿を示したが、幸いにも、それは不可避のものではない。

AT:今日68年に対して、非常に肯定的な判断ができると私は信じています。なぜならそれは、将来を予感させるものであったからです。68年は、未来を先取りする運動、すなわち文化的な大きな変化を告知する運動でした。


■トレーヌは、この討論では、文化的な側面においてのみ5月革命を擁護している点が特徴的だと思います。第1回のコメントで引用したテキストでは、社会的な統治の新形式と文化の革新を結びつけた点に歴史的重要性を見ていましたが、ここでは、後者の観点のみから語られています。トレーヌのこのような見解の変化がいつごろ起ったか、わかりませんが。
■国家と教会の関係が語られていますが、興味がある人は、谷川稔『十字架と三色旗 もう一つのフランス近代』(山川出版)をお勧めします。

1 第三共和政期の政治家。初等教育無償法と初等教育の義務化・世俗化法を制定し共和国の礎を築く。一方で彼は、アフリカの植民地化を推し進める植民地主義者であった。

68年の思想―現代の反 人間主義への批判 (叢書・ウニベルシタス)

68年の思想―現代の反 人間主義への批判 (叢書・ウニベルシタス)