68年5月のバリケードは未だフランスを二分する(前半)


今回の記事はニューヨーク・タイムズからです。内容的にはとても分かりやすいかと思います。 サルコジという存在が68年を抜きには語れないという指摘は面白いです。

ニューヨーク・タイムズ 08・4・30

Barricades of May ’68 Still Divide the French

「68年5月のバリケードは未だにフランスを二分する」

 40 年前、ネクタイとボビー・ソックスを身に着けたフランス人の学生は、警官に向かって投石し、動脈硬化を起こした戦後の体制の変革を要求した。現在、フランス人学生の悩みの種は、就職できるかどうかであり、また国の給付を打ち切られることであり、現状維持を求めて、街を行進するのである。

 1968 年5月は、フランス人の生活にとっての分水嶺、つまり多くの人にとっては解放という聖なる瞬間だった。その時、若者は団結し、労働者は耳を傾け、ドゴールの半分王党派のフランス政府は慄いた。しかし、サルコジ現大統領(彼は当時13歳だった)のようなその他の人にとっては、1968年5月が表すのは、アナーキーであり、道徳的な相対主義である。つまりそれは、彼の容赦ない言い方を借りれば、「清算されねばならない」、社会的・国家的価値の破壊である。

 40年前に起こったことを巡る激しい論争は、全くフランス人的なものである。呼び名を巡ってさえ争いがある。右翼は「出来事」と呼び、左翼は「運動」と呼ぶ。

 若者の反乱は西側世界を席巻するが、それはアメリカの反ヴェトナム戦争の抗議から、激動のロンドンのローリング・ストーンズや最後には西ドイツのバダー・マインホフ一派に至るのだが、フランスは、ベビーブーム世代の反抗が真の政治革命に接近した国である。単なる階級・教育・性的な振る舞いに対する息の詰まるような社会的な支配に対する反発だけではなく、1千万の労働者がストを行った。

 アンドレ・グリュックスマンは、当時の主たる関係者であり、現在も著名な「メディア知識人(public intellectual)」であるが、彼によれば、1968年5月は、「讃えるべき崇高な記念碑であるか、それとも消し去りたい忌むべき記念碑のどちらかである。」

 「それは死体であり、誰もがそこから何かを掠め取ろうと望んでいる」と彼は述べた。

 グリュックスマンは、71歳で、今もってビートルズばりのヘアースタイルをしている。彼は、28歳の映画監督である息子のラファエルと、『ニコラス・サルコジに教える68年5月』を著した。

 サルコジは、社会党の候補者と争った一年前、辛らつな選挙演説を行い、その中で1968年5月と「左翼の後継者」を攻撃した。彼は、「道徳・権威・労働・国民の一体性」の危機に対する非難をその後継者たちに浴びせた。彼の攻撃の矛先は、「左翼のキャヴィア(すなわち左翼の美食家)のシニシズム」に向けられた。

 1968年においては、「希望は、ボルシェビキ革命のように世界を変革することだった。しかしそれが未完であったのは必然であり、国家の諸制度は無傷のままである」とグリュックスマンは述べた。「われわれは、祝っているが、権力の座にあるのは、右派である。」

 さらに彼によれば、フランスの左翼は、「精神的なこん睡状態にある。」

 ラファエル・グリュックスマンは、1995年に彼にとって初めての高校でのストの先頭に立った。その彼によれば、彼の世代は、反抗的な父親たちに対するノスタルジーは持っていても、経済的な不況の時代においては、戦いは望まないということである。

「若者は、今デモをしているのは、あらゆる改革を拒否して、先生たちの権利を守るためです。私たちには、オルターナティブはありません。私たちは、方向性を失った世代なのです。」と彼は述べた。

 40 年前の出来事(運動)は、5月にナンテール校で開始された。パリの郊外にあるナンテールでは、ドイツ生まれのフランス人であるダニエル・コーンバンディが寮に関する規則(男女が寮で同室できる時間についての規則)に反対するデモの先頭に立ち、それが手におえないものになった。

 大学が5月の最初に閉鎖されると、怒りはパリの中心に、カルチェラタンやソルボンヌにも広がった。学生のエリートたちは、化石化した大学の規則に反対してデモをした。さらに、怒りは外側の大工場の労働者にも及んだ。

 バリケードや警官の突撃や催涙ガスの場面は、フランス人にとってはお馴染みのものであり、雑誌や何十冊もの本で取り上げられた。そのような本の一冊に、現在84歳の写真家のマルク・リブゥの『敷石の下に』がある。このタイトルは、現在欧州議会の議員であるリーダーであり道化役であったダニエル・コーンバンディの当時の有名なスローガン「敷石の下には、海辺があった」を引用したものである。コーンバンディは、彼の政治的立場と髪の色から「赤毛のダニー」として知られていたが、他のスローガンも彼の手によるものと考えられている。それらは、「禁止することが禁止されている」と「限界なしに生き、縛られずに楽しめ」というものだ。後のほうの「楽しめ(jouir)」は、性的な絶頂という二重の意味を持っている。

 禁止命令は、特に潜在的な力を有していた。というのも、フランスは、厳格な国であり、 避妊ピルが解禁されたのはほんの一年前のことだからである、と当時のもう一人のリーダーアラン・ガイスマールは述べる。

 ガイスマールは、物理学者で、18ヵ月投獄され、後に政府の大臣の参事官を勤めることになるのだが、自身の著作『私の1968年5月』を著した。

 現在、元毛沢東主義者のガイスマールは69歳で、iフォンを利用している。うれしそうに、彼の音楽リストを見せくれたが、ほとんどがモーツアルトだった。

 「運動は、政治革命としてではなく、社会革命として成功した。ド・ゴールの政府は警察力をもって応戦し、学生が大統領宮に進撃した場合に備えて、軍隊を動員したが、そのような考えは、学生のリーダーには思いつきもしなかった。彼らは、革命を口にこそすれ、実行する意志を欠いていたのだ」と彼は述べた。

 彼によれば、最も重要なことは、その運動は、フランス共産党の終わりの始まりであったことだ。当時共産党は、統制できない左翼の若者の反乱に真っ向から反対した。

 さらにその左翼の若者たちは、大企業の組合に対する共産党の権威を何とかして大きく揺るがすことに成功した。

 「68年5月当時の社会は完全に塞がれていた。それは、第二次大戦前の社会に対する保守的な反動であり、アルジェリア戦争とベビーブームによって揺るがされ、学校はひどく生徒で溢れかえっていた」と彼は述べる。

「離婚歴のあるサルコジは、エリゼ宮のディナーには招待されなかっただろうし、ましてフランスの大統領には選ばれなかっただろう。」と彼は続ける。「外国人でユダヤ系の先祖を持つサルコジの目覚しい私生活および政治の成功は、1968年がなかったら考えられないだろう。ネオコンは、68年なしに考えられないのだ。」

 アンドレ・グリュックスマンは、「金メッキを施した博物館であるフランス」を近代化し、「崇められている国家」の力を縮小させる最大のチャンスであるとして、サルコジを依然として支持している。その彼は、サルコジが1968年の出来事に対して選挙中激しく攻撃することを面白がっている。

 「サルコジは、最初のポスト68年世代の大統領だ。68年を清算することは、自分自身を清算することである」とグリュックスマンは述べる。(続く)

■今回は、「5月革命」の40周年に揺れるフランスについてのニューヨーク・タイムズの記事を紹介します。
■一連の事態を「運動」と呼ぶか、「出来事」と呼ぶかで、政治スタンスがわかるという点が興味深くおもいました。必ずしもそうなのかという気もしますが。紹介したY.C.Zarkaは「出来事」と述べていますが、サルコジには批判的だったと思います。
■ここまでは、政治の話ですが、次回にはソニア・リキエルやFauchonが登場します。ご期待を。

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