五月革命に関するインタビュー記事より

フィガロ紙に下記のインタビューが掲載されていましたので、掲載しておきます。
現在、フランス語修行中の丁稚1号(ピエール)が書いてくれたものです。
(誤訳があるかもしれませんが、その際はご指摘くだされば幸いです)

«Ces événements ont ouvert la voie à la société libérale»
「この出来事は、自由な社会への道を開いた」
Yves-Charles Zarkaは、ソルボンヌ大学・近現代政治哲学教授。CNRS(科学研究国立センター)主任、およびCitee誌編集主任。

フィガロ:あなたによれば、知的な歴史の上で、68年5月はどのような意味を持ちますか?
Y.Z: 68年の5月は、間違いなく、解放の運動、自由の息吹、友愛の連鎖だった。存在したのは、息吹であり、精神であり、未来への信頼だったが、以来それらはもはや見出されないでいる。だからいまだに5月が口にのぼるのだ。しかし革命ではなかった。道徳や知的な秩序は、確かに揺るがされたが、諸構造や社会や経済的な論理、そして言うまでもないが権力構造は磐石だった。68年5月が一掃したのは、干からびた知的・道徳的抵抗勢力である。彼らは、自由な社会の発展の障害にすぎない。ここに逆説が存在することになる。運動が纏っていたイデオロギー的な衣装は、マルクス・レーニン主義であったが、このイデオロギーが自由な社会に対する束縛を除いたのだ。5月の諸結果は、当事者や批判者が予期したものとは常に反対であった。私が仰天するのは、権力の終焉や両親への軽蔑や知識の破壊など現在のすべての悪弊の原因、あるいは現在の権力の原因に68年を仕立て上げるような戯言をいまとなって目にする時である。こんな見方はどれも取るに足らない。68年以前の大学や道徳的な画一主義や女性の隷従を懐かしく思わなければならないのだろうか。
フィガロ:しかし、それはつかの間の熱病のようなものではないでしょうか?
YZ:現代社会で私を困惑させるのは、失業の恐怖やあらゆる領域での治安の追及によって未来への恐怖が生み出され、あるものたちがその恐怖につけこむということである。もうひとつの当惑の原因は、想像力・創造性・知的生活の麻痺と呼ばれるものである。経済・金融権力や政治権力やメディア権力のシニシズムは、若者をつき動かしうる反抗の精神の復活によって、異議申し立てを受けていると時には思われている。しかし若者は恐怖を抱いていて、彼らの考えは、もはや共同的なものではなく、個人主義的なものである。各人は各人のために、各人のための神といった具合である。この反抗の精神は、A.バディウやS.ジジェクなどの私がテロルの哲学と呼ぶものによって生み出されたものでは断じてない。極左のこれらの思想家(彼らのうちのあるものは68年世代であるが)が現在表明しているのは、民主主義に対する嫌悪と独裁でないなら、権力の権威的主義的な形態にたいする支持である。彼らは68年から最も程遠い存在である。彼らは、毛沢東を引き合いに出し、革命的テロルを支持する。逆説的になるかもしれないが、反抗の精神、反逆の精神、自由の希求は、左翼や右翼と自称する思想の中にはもはやないのである。
フィガロ:68年と比べて、時代の変化をどのように定義できるでしょうか?
YZ:私は根本的な二つの違いを認める。第一の点は、先に述べたように、68年においては、イデオロギーは多かれ少なかれマルクス・レーニン主義的なものであった。つまりマルクス主義が共通の地平を提供し、集団的な運動を可能にした。またこの運動に意味を付与した。今日依然として社会運動を見出すことができるが、それらは諸条件要求型の運動であり、日常生活のあれこれにかかわるものである。満足して、あるいはは不満足を残したまま、各人は自分の元に戻っていたのだ。今日われわれは、ポストマルクス主義の時代にいる。わかっているように、左翼に代わる思想は存在していない。二つ目の違いは、空間−時間的な次元にかかわる。68年には、攻撃対象は身近に存在し、すなわち人格化されていた。つまり家族・大学・企業・政治権力であった。今日、グローバリゼーションによって、全ては遠くのものとなり、ほとんど全ては匿名化されている。欧州委員会IMFや外国に本部がある取締役会に対してどのように圧力をかけるのか。その結果、諸個人が自分の殻に閉じこもるという危険が生まれたのである。その危険は、われわれが足を踏み入れたデジタル時代によって増長され、メディア、特にテレビはそれを利用するすべを知っている。
フィガロ:このような無力感が、極左つまり反民主主義的な思想への回帰の主な理由のひとつではないでしょうか。あなたが言う「テロルの哲学者」は、民主主義は約束を破ったと考えています。68年の40周年は、反全体主義思想の失敗によって記されるのではないでしょうか。
YZ:とりわけこのような愚論は、歴史や知性に対する侮辱であると言えるだろう。この種のテキストに見られるのは、戦前の評論家の憎悪に満ちた文体である。バディウサルコジをネズミにたとえると、極右のパンフレットを読んでいるような印象がする。権力の行使の方法に対する批判の権利を持つことは正当であり、そのようにする義務さえ有する。しかし、バディウが行っているのは、まったく別のことである。彼が望むのは、憎悪を煽り、死に追いやることである。別のネズミによって選ばれたネズミによって支配されている―――。この専制的な哲学者によれば、これこそが、フランスの民主主義の行き着く先である。ジジェクがテロルへの賛辞を再び行ったのも、愕然とさせるものだ。しかし、この点で、われわれは、メディアの影響の諸結果に高い代償を支払っていると付け加えることができるだろう。メディアは、著作という観念とは別に、有名人を作り上げたり、蹴落としたりするのである。
フィガロ:どうしてメディアを批判するのですか?
YZ:メディアこそが、この20年間知的生活を窒息させるまでになったのである。メディアが生み出したのは、取るに足らないメディアに登場する思想家の小さなカーストである。このカーストは、メディアによって、メディアのためにのみ存在し、ジジェクバディウのようなテロルの哲学者をたたく意欲も手段も持ち合わせていない。これらの哲学者は、広大な知的廃墟を利用して、公的な空間における思想の欠如によって大きく開いた裂け目になだれ込んできたのである。

イデオロギーの崇高な対象

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倫理

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